第68回 ブレイクショット

10年前、私は日本人として初めてビリヤードの世界選手権に出場する女性ハスラーとして世間を騒がせた。世界大会が近づく頃には連日テレビに登場し、どこに行っても全く知らない誰かに声をかけられる毎日だった。元々ビリヤードをやる人間はもの静かな人が多い。キューの先にチョークを塗る時の乾いた音、ビリヤードボールが互いにぶつかる時の硬い音。ポケットに落ちたボールがビリヤード台の下を流れていく音。私たちはそんな繊細さを静かに楽しむ人種なのだ。だから私は注目される日々に強張ってしまった。表情も態度も。

世界大会に出場するほどの選手達が集まった控え室は緊張感が張りつめている。たとえ目が合っても何も話さない。何か音を立てようものなら舌打ちされそうな鋭い気配だ。日本にいる時からのストレスが溜まっていた私は耐えられなくなってしまい、試合直前までずっとトイレに籠っていた。こんな状態で世界のトッププレイヤー達との勝負に勝てるはずが無い。序盤から私はあり得ないミスショットを連発してしまった。最初は同情していた観客も段々と冷ややかな反応になっていく。頭の中は真っ白だし、最後は涙を拭かないとボールが見えなかった。試合後、控え室に戻るのが怖くて私はトイレに直行した。耳を塞いで座り込み、大会が終わるのを何時間も待った。

あれから10年。2人の息子と旅行で訪れたスペインのホテルにビリヤード台があった。息子達は、昔私が世界的なプレイヤーだったなんて言っても信じてくれないだろう。テレビゲームでなんとなくビリヤードを知っていた息子達は、本物の台を目の前にして興味津々だ。キューの握り方もボールの並べ方も何もかもが滅茶苦茶だが、本当に楽しそうに何度も何度もショットしている。私は目を閉じて、しばらくの間ボールとボールが当たる時の硬い音を久しぶりに楽しんだ。子供達の笑い声に混じりながら、私が強烈に愛した音達が聞こえてくる。やっぱり私はこの音が大好きなんだ。

どうしても我慢出来なくなった私は「ママにもやらせて!」と言った。息子達は「ママには無理だよ」と少し怪訝な顔をする。そうこなくっちゃ。私はキューを受け取り、確実に狙えるポケットを決めた。数秒後の出来事に驚くであろう息子達の顔を想像すると今から笑ってしまいそう。私の大事なものが勢揃いした今夜。きっと一生忘れない。

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