第70回 もうすぐ夜が明ける

始発で帰ると橋の上にお父さんがいた。こんな朝早くから犬の散歩をしているはずがない。犬の散歩のフリをして、私のことを待っていたのだ。別に初めての朝帰りというわけではないし、普段から教育に厳しい家庭というわけではない。私はひとつ大きく呼吸をしてから、自然を装ったお父さんに近づいていった。

お母さんは絵に描いた様な肝っ玉母さんだった。レジ打ちのパートで働き、私の勉強を手伝い、朝夕に犬の散歩をして、ご飯を作り、バラエティー番組ではゲラゲラ笑い、悲しげなドキュメンタリー番組ではおいおいと泣きっぱなし。そんな人だった。お父さんがぱったり仕事に行かなくなってからは仕事も増やして、毎日毎日忙しそうだった。それでも私の髪型や服装の変化に気付いてくれるお母さんが私は大好きだった。

お母さんのお葬式に集まった親戚の前でお父さんは塞ぎ込むだけで何も出来なかった。段取りも挨拶もうまく出来ない父親に親戚達は驚いていたし、幾分苛立っていた。そんなお父さんを「あなたこうゆうの向いてないのよね」と慰めるお母さんはもういない。私は仕事に行かなくなってからのお父さんとは段々会話が減っていたけど、この日以来、一言も話してないと思う。お父さんが頑張って生きているのはもちろん知っていた。でも無視することで私は私を保っていた。

ほんの少しだけうまれた罪悪感に押されて、こんな朝早くにどうしたの、と声をかけた。お父さんは犬を指差して微笑む。こいつがうるさくてさ、とでも言いたいのだろう。私たちは黙ったまま家の方向に歩き始める。ふと犬のリードを受け取る時、お父さんが持っていた携帯の画面にお母さんが見えた。思いがけず気持ちが溢れそうになる。私は、本当はお母さんの思い出を話したくて話したくて仕方なかった。今朝はもう汗ばむ位の気温。そろそろ梅雨が終わるのかもしれない。私は急に嬉しくなった。雲ひとつない空はもうすぐそこだ。