第72回 合わない目線
私達は完全に迷っていた。山道が急に細くなった辺りで「おかしいかも」とは思っていたけど、どんどん進んで行く彼をどこかで信用していた。今はもう道さえもない。なんだか彼は自棄になってるみたいだ。こんな時に余裕の無い男は駄目だ、もし山を無事に降りても大喧嘩だ、私は頭の中でそんなことを考えていた。
その時、後ろで「ドサッ」と物音がした。振り返るとスーツを着た男性が転んでいる。私はとっさに男性の所へ向かった。その人を助けたいというよりも、他にも人が居た!ということが嬉しかった。でも私は彼に近づく途中で「この人自殺しに来たのかも」と気付いてしまった。首に巻いたロープが重みで切れてしまったのか、ひどく咳き込みながら首の辺りを押さえている。男性には私の声は聞こえてないみたいだけど、目線はしっかりと合っている。良かった、大丈夫そうだ。
彼も駆け寄って来た。男性は私と彼を交互に見つめてポカンとしている。まだ意識がハッキリしていないのだろう。すると彼が男性に話しかけた。「あなたには彼女が見えるんですね。羨ましいです。彼女が亡くなってからも、僕は彼女の存在はずっと感じていたんです。でも見えないんです。だから僕も死ねば会えるんじゃないかって思ってここに来たんです。でもあなたには見えてるってことを知って驚きました。僕と少し話しませんか?」
しばらくして、彼は男性と一緒に山を下りることになった。私は彼の思いを聞いて迷ってしまっている。もう彼から離れた方が良いのかもしれない。そう思うと私はそこから動けなかった。すると男性が振り返って「彼にはまだ君が必要だよ」と言った。彼も振り返った。そして目線が合わないまま彼は微笑んだ。あの笑顔に私は勝てない。彼もそのことを良く知っている。2人の後を追って、私も歩き出した。もう少しだけ彼と一緒にいることにする。もう少しだけ。