第98回 歪み

「弟さんを勾留しているんですが何も話さないんです。このままだと留置所に入れることになるので親族に連絡を取りました」と警察から連絡をもらい、僕はすぐに弟が勾留されている警察署に向かった。きっと弟は「自分は言葉が不自由だ」ということを伝えていないんだろう。小学校の頃から何も変わっていない。

弟は生まれつき言葉が不自由だった。知的障害があるわけではなかったから、自分の障害を自覚し始めた時はかなり苦しんでいた。友達と外に遊びにいかなくなり、明るかった性格も日に日に暗くなっていった。小学生になると当然のようにいじめが始まった。最初は真似をされて笑われ、次第に馬鹿にされるようになり、そして陰湿なものに変わっていく。弟はそんな環境に抵抗し続けたために何度も大喧嘩になり、よく職員室に呼び出されていた。「またお前の弟が職員室にいるぞ」と担任の先生に言われて、僕は度々弟を迎えに行ったものだ。

あの頃と同じように、弟は憮然とした顔で椅子に座っていた。その姿があまりに懐かしくて僕は思わず笑ってしまった。顔を見れば分かる。弟はきっと悪くない。ただやり過ぎただけだろう。僕が事情を話すと、担当の警察官はよく理解してくれて、弟はすぐに釈放になった。電車の中で障害者を馬鹿にしていた若者を、次の駅で無理矢理電車から降ろしたのが原因だったようだ。タクシーに乗り込み「お前は相変わらずだな」と言うと、弟はまっすぐ前を向いたまま「間違ったことはしてないよ」と手話で返して来た。

弟のアパートに着くと、その建物は夜でも分かるほどボロボロだった。いくつかの部屋の前にはゴミが散乱している。それを見て僕は大きく勘違いしていたことに気づいた。弟は相変わらずのように見えて、少しづつ削れてしまっている。不器用過ぎて全く世の中を上手く生きれていないんだろう。錆びついて今にも外れてしまいそうな階段を上がっていく弟の背中を見送りながら、僕はどうやって弟を助けるか考え始めていた。