第7回 気球から

は気球を飛ばす仕事をもう30年もやっている。

別に大空に魅せられてこの仕事を選んだわけじゃない。気球を飛ばすだけなんて簡単な仕事だ、と思ったから選んだだけだ。するとどうだ、こんなに難しい仕事は無いとさえ思える。風向きと場所を考えて球皮を降ろさないと岩で傷がついたり、日に日に劣化する球皮の内側にまで気を使わなくちゃならない。凄く神経を使う仕事だ。そんな毎日を繰り返す俺の思い出深い1日の事を話そうと思う。

その日は朝から風が強く、客もまばらで、ボスはもう店を閉めて酒場にビールを呑みに行きたがっていた。その時女が入ってきた。東洋人にも、中東人にも見えるエキゾ チックな女だ。女1人の客は別に珍しくない。しかしその女はどこか雰囲気が違っていた。少し面倒そうにしているボスに向かって、女はすぐに奇妙なお願いを始めた。

「夫の骨を空から撒いてもいいか? 夫は高い場所が大好きだったから。変なお願いだとわかっている。だから料金は2人分でも構わない。合図したら降ろしてくれ。」女は慣れない喋り方でそう頼み込んでいた。話を聞くうちに、あからさまに嫌な顔をし出したボスの返事を待たずに俺が「いいよ。」と返事をした。

なぜ、その気になったかはよく覚えていない。その日は暇で、給料が少しでも下げられるのが嫌だったんだろう。横で話を聞いていた俺が快く引き受けた事に女は少し驚いた様子だったが、すぐにありがとうと言った。

搭乗地点に行くまで、女は一言も話さなかったが、俺は特に気にならなかった。ゴンドラに乗り込み、ひとしきり説明をした後で女はまた一言ありがとう、とだけ呟いた。気球は最初静かに浮き始め、その一瞬後には速いスピードで空中に飛んでいく。目を閉じたまま浮かんで行く女は、すぐに真下からは見えなくなった。俺は合図が見える場所まで移動して女を見上げた。

女は何かを空に撒いていた。きっと夫の骨なんだろう。表情はわからないが、大事に大事に撒いているのはわかる。何となく目が反らせず、俺は女をずっと眺めていた。

やがて女から合図が来た。普段よりかなり短い飛行時間だったが、気持ちの整理がついたんだろう。俺は気球の真下に戻り、女が降りてくるのを待った。何か声をかけるべきだと思ったが何も思いつかない。女の表情を見て決めよう、そう決心して着地寸前のゴンドラの中を見るとそこに女はいなかった。もちろん隠れる場所なんかどこにも無い。何も残すことなく消えてしまっていた。

あれからもう何年も経った。あの女は一体どこに行ったんだろうか。もちろん誰も知らない。けど、もし夫と一緒に灰になれたのならそれで良いじゃないか、俺は今でもそう思っている。

そして今日も、明日も気球を飛ばす。全部吸い込む空に向かって。