第8回 ひょっとこ

こはある観光地の古い蕎麦屋。まだ午前11時過ぎで、開店直後だから客は俺しかいない。メニューを見ずに頼んだもり蕎麦を待っている間に、ふと店内を眺めていると、とある飾り付けがなぜか気になってしまった。そこには割と大きめな「ひょっとこ」と「おかめ」が飾ってあったのだ。しばらくそれらを眺めている俺に気づいたのだろう。気の良さそうな女将さんが話しかけて来た。

「お客さん、あれ気になりますか? たまに聞かれるんですけどね、実はあれは夫が私にくれた物なんです。何年か前、大喧嘩して口もきかないまま3日くらい経った事があったんです。喧嘩の理由もくだらなかったし、もう仲直りしても良かったんですけどなんだかまだ少し気まずくて。夫が寝たのを確認してから布団に入ったら、夫が「ひょっとこ」をかぶったまま寝てたんですよ。私は最初もの凄くびっくりしたし、その後しばらく笑いが止まらなかったんです。でも「ひょっとこ」の下の顔はきっとニヤニヤしてるのに、夫がじっとしたまま動かないのが悔しくて、私は声かけないで寝てやったんです。ちょうど次の日定休日だったので、早速私はいつの日か仕返しをするために「おかめ」を買ってきました。でもその日、夫は草野球からの帰りに交通事故で亡くなってしまったんです。
だから「おかめ」の出番は2度と無くなってしまったんだけど、それも可哀想だったから「ひょっとこ」と一緒にお店に飾ってあげたんです。」

女将さんは笑顔のまま、そう話してくれた。客呼びのためにそそくさと外に行ってしまったが、俺には女将さんの目が、心なしか潤んでいた様に見えた。きっと蕎麦が来るまでにもう少し時間がかかる。俺はもう一度「ひょっとこ」と「おかめ」を見上げた。