第36回 こんにちは、初めまして

たち姉妹が日本に渡って来たのは20年位前。それから毎日の様に過酷な練習にはげみ、週末になれば日本全国どこにでも踊りに行く生活を続けて来た。意外かもしれないが、私はこの生活に疑問を持った事は一度も無い。日本人にもすっかり慣れ、長年一緒に活動してきた雑技団のメンバーと入籍も済ませた。恋愛経験は夫のみだけど満足している。でも私は今、疲れ切っている。3つ上の姉の難病が日に日に悪化しているからだ。

姉の様子が気になり始めたのは8年ほど前。練習中には問題の無かった演目でも、本番中に演技を間違えたり、道具を持たずにステージに上がってしまう事があった。そんな事が何度か続いたため、病院で診てもらった結果、姉は難病指定されている病気にかかっている事が分かった。この難病は発症から10年もすると、ほとんどの記憶を失ってしまうそうだ。以来、姉は度重なる記憶の欠落に苦しめられている。中国にいた頃の記憶はもうほとんど無くなったわ、と小さい声で教えてくれた事もあった。

最近では私が姉に衣装を着せて、メイクを施し、本番直前にもう一度演目の再確認をしている。以前よりも簡単な役を演じる事で、どうにか公演をこなしている状態だ。きっと雑技団のメンバー達もストレスがあるだろうけど、今の所まだ誰も文句を言わないでくれている。

ある日、私はなかなか衣装に腕を通してくれない姉に金切声を上げてしまった。驚いた姉は「こんな派手な服を着て人前で踊るなんて私には出来ないです」と震える声で答えた。私は姉を抱き寄せ、衣装を彼女に着せるのは今日で最後と心に決めた。会場のすぐ近くの路上で椅子に座り出番を待つ。姉はぼんやり真っ直ぐ前を見たまま。このままだとそのうち私の事が分からなくなってしまうかも知れない。急に私は怖くなり、急いで「お姉ちゃん」と呼んでみた。

姉はゆっくり私に振り向き、満面の笑顔で「こんにちは」と言った。