27歳の若さでこの世を去りながら、今やアンディ・ウォーホルと並んで、アメリカの現代アートを代表する存在となったジャン=ミシェル・バスキア。最近では、彼の作品が現代アートで最高の値段(約123億円)で取り引きされたことが話題になったこともあった。そんなバスキアが有名になるまでを追ったドキュメンタリー映画『バスキア、10代最後のとき』が話題を呼んでいるが、バスキアとは一体どんなアーティストだったのか。その経歴を振り返ってみよう。
1960年、バスキアはニューヨークで生まれた。プエルトリコ系移民の母親とハイチ系移民の父親を両親に持つバスキアは、4歳で読み書きを覚え、11歳の頃にはフランス語とスペイン語を流暢に喋れるなど頭の良い子供だった。その一方で、芸術好きの母親に連れられて美術館に通い、アートへの興味を深めていった。両親が離婚してからは母親と暮らしていたが、13歳で母親は精神病院に入院。バスキアは父親に引き取られたが、父親とうまくいかず、家を出て路上生活を送るようになる。その頃から、バスキアの夢は有名な芸術家になることだった。
そして、1976年。バスキアは、高校時代の友人、アル・ディアスとグラフティのユニット、SAMOを結成する。当時、はニューヨークでは、スプレーで公共施設に絵やメッセージを書くアート、グラフティが若者の間で広がっていた。そんななかで、SAMOの文学的なグラティは注目を集めるようになる。グラフティがニューヨークのストリート・カルチャーを象徴するアートになっていくなかで、SAMOは同時代のグラフティ・アーティスト達に影響を与えた。
イギリスのグラフティ・アーティスト、バンクシーもバスキアから影響を受けたひとり。バンクシーといえば、今年、サザビーズで高値がついた彼の作品が、額縁に仕込まれた装置で自動的に裁断されて、世界を驚かせたことが記憶に新しい。バンクシーの作品に必ず政治的なメッセージが織り込まれているのは、バスキアからの影響だろう。2017年、ロンドンのバービカン・センターでバスキアの回顧展が行われた時、バンクシーはバスキアの作品を題材にしたグラフティを、バービカン近くのトネンルの壁に描いた。それはバスキアが描いた人物を、警官がボディチェックしているという絵。そこには、今も無くならない人種差別に対する痛烈なメッセージが込められていた。