Interview:Henry Ernst(Fanfare Ciocarlia’s Manager)

——<フジロック>はカフェ・ド・パリもオレンジコートも大盛況でしたね。

ホントに楽しかったよ! お客さんもたくさん集まってくれて。

——次回、10月にワンマンライブやイベントでまた来日されるので、改めてファンファーレ・チォカリーアというグループのことを伺おうと思います。そもそも彼らは地元の結婚式などで演奏するグループだと思うんですが、どれぐらい以前から音楽家として生活しているんですか?

基本的にみんなルーマニア東部のゼチェ・プラジーニという小さな村で生まれ育った人たちで、工場とか農業での仕事をちゃんと持っているんだ。それで、仕事が終わると、そのブラスミュージック……彼らの伝統なんだけど……これを活かしていくという意味もあって、結婚式や洗礼式、お葬式っていう場面で音楽を演奏する生活を送ってきた。ある意味、もともとは音楽よりもその副収入のほうが本人たちにとっては重要だったぐらいなんだ。

——要するにプロの音楽家ではなかったんですね。

工場で働く云々っていうのは生きていくために義務的な部分なんだ。ある意味、ルーマニアにおいて当時、職業としてのミュージシャンというのは政府からも認められていなかったし、それとは違う生業もどうしても持たなくてはならなかったからね。でも60年代から始まって、70年代、80年代に他の地域でも人気が出て、彼らの副収入も増えたから、演奏活動をすることを彼らは歓迎していたと僕は認識してるよ。

——じゃあ、60年代からなんですかね? 商業的に認められたのは。

文化としてルーマニアのジプシーが演奏するブラスミュージックというものは、もう19世紀のアタマからあって。ルーマニアってそもそも多国籍な国で。もちろん主にはルーマニア人の国なんだけど、そこにドイツやハンガリーやオーストリアやブルガリアの人たちがマイノリティとして住んでいて、19世紀のアタマに本国であるドイツ、オーストリアあたりでブラスミュージックが流行した時期に、ルーマニアに住んでいる少数のドイツ、オーストリアの人たちが、その本国の文化を自分たちでもルーマニアにおいてやるようになって、で、そこに広がりを見せたということなんだ。だからジプシーミュージックという形でのスタートは100年ぐらい前と言っていいんじゃないかな。そしてその音楽が商業的なピークを迎えたのが60〜80年代。ルーマニアでジプシー・ブラス音楽の需要が高まって、演奏することによってお金を得ることができるようになったのがその時代だと思う。

——ところで村の人口の何割ぐらいが音楽家なんでしょう?

村の人口が400人ぐらいなんだけど、そのうちの男性の5〜6割がブラスミュージックをやってると思う。この音楽は女性は関わらないので、あくまでも男性の5〜6割だけどね。そのうちさらに2割ぐらいが有名どころというか本当に才能のある人たちだね。

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