HOUSE MUSICとの出会い。そして自分の目で確かめた真実。

――パラダイスガラージは世界的に有名な伝説のハウス箱のひとつですね! ここがハウスとの出会いのきっかけになるのでしょうか? 

ハウスミュージックはシカゴや他の地域でも流行りはじめていると噂では聞いていて、85年頃に聴き始めてから、少しの知識は持っていましたけど、当時はファッションとリンクしているヒップホップ文化の方が格好いいと思っていたんです。その先輩がパラダイスガラージでのラリー・レヴァンのDJを、フロアーで生録音した120分のカセットテープを数本もらって聴いたら、1曲を1時間位かけているんですよ。そんなずっとループしている音楽を聴いていたらハマってきて、楽しいと思うようになってきて、それからは半分ハウス、半分ヒップホップを流すようになりましたね。特に拍車をかけたのは、シカゴの「WBMX」というラジオ番組。「WBMX」で流れる楽曲は、ハウスやその当時産まれ始めていたデトロイトテクノにスクラッチとかを入れていたり、いろいろな技も駆使しながらミックスされていて恰好良かったですよ。それが決め手でハウスを本格的にやり始める事にしました。

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KO KIMURA 20歳の夏。初めてのNY旅行は刺激的でした。

バンド活動ではワシントン生まれのGO-GOという、チャックブラウンやトラブルファンクみたいな生音の調のサウンドを僕がブレイクビーツでループしてスクラッチを入れる。そこにダンサーとラッパーのメンバーが出てきて歌って踊ってくれる感じで、DJタイムでは小林径さんや佐々木潤君はレアグルーヴをかけて、僕はハウスをかける。そうゆう構成で活動していましたが、僕の中でヒップホップの割合は減っていたんですよね。N.Yに行ったその先輩からも、「ヒップホップは昼間に流れている音楽でMTVとかで流れていて、街中でかかっているけど夜のクラブではかかってないよ。かかっているクラブがあっても直ぐに拳銃の撃ち合いとか殺人事件で閉店したりする。」とも言われていたりもして。それを自身でも確かめるためにも、N.Yにすぐ行きたかったんですけど、アメリカの法律ではナイトクラブだと20才以下は法律上入れなかったので、5月に誕生日を迎えて20才になった8月にすぐにN.Yへ行きました。

――かなりアクティヴな10代ですね。そして絶対に自分で確かめたいという信念。

で、話は前後するんですが、僕が上京して東京でハウスのDJとして活動を始めてから、僕がDJをしていたお店にフランキー・ナックルズが初来日したんですけど、スポンサー絡みの仕事でフランキーの来日の為に、友達の、そのまた友達がテーマソングを作らなければいけないという話がありました。その時にそのイベントを企画した広告代理店でバイトをしていて、テーマソングの制作を任されたのが富家(SATOSHI TOMIIE)君だったんですけど、当時の富家君はヒップホップをやっていて、ハウスの事は守備範囲外だったみたいで、共通の友人に「ハウスって例えばどんな音楽?」的な感じで聞いた様で、僕の友人が「ハウスってどうよ?」って感じで僕に聞いてきて、その当時丁度アシッドハウスが流行っているとか、自分が知っていることをその友人経由で言ったら伝わった様で、言った通りアシッドハウスが出来あがってそれをフランキーが気に入ってくれたんです。その事がきっかけで富家君とも仲良くなって、それで一緒に初のN.Yに遊びに行きました。20才になってからは、家の水道やガス、そして電気さえ止まっても現地に足を運んで、しっかり自分で見て感じて確かめていましたね。

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1枚でもレコードを多く買う為に、1晩$8のユースホステル泊。

――当時の渡航費は今と違って、決して手軽なものではないですよね。

当時は航空券だけで15万円以上だったですからね。さらに1泊8ドルとかの激安のユースホテルに、レコード、ファッションという目的もあったから無理してでも行きました。それに、向こうのリアルなアンダーグラウンドシーンの状況を知りたかったんです。好き過ぎて年に4、5回は行ったりしていました。平日でも2000人くらい入っているクラブもあって、そうゆうクラブには黒人/ヒスパニック系のゲイしかいない。それでもそうゆう現場にあったリアルで恰好良いものに惹かれていたから、オシャレなヤッピーが行くお店には眼もくれずに、遊びに行きましたね。だけどその場にいるアジア人は僕ひとり。そんな状態だったから、すぐに顔も憶えてもらえましたし声もかけてくれるようになって、「お前はどこに住んでるんだ? 何者だ?」なんて聞かれるから、「日本から来たDJだよ」って返すと、「日本から来てるDJなのか?でもいつも居るよね? NYに住んでると思った」なんてやり取りから、すぐにタダでクラブに入れてくれたり、DJブースとかにも連れていってもらえて、飛び入りDJとかもさせてもらえて。それと、キース・ヘリング(1958-1990年)とかも行くパーティーが同じだったのと、黒人とヒスパニックしか居ないゲイパーティーに唯一の白人の彼と、唯一のアジア人が僕で。彼が親日家だっという事もあり「お、また来てるんだ!」って話とかも出来る様になったり。

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23歳位から2人で共にSTUSSYにスポンサードして頂く様に

――世界ストリートアートの先駆者のキース・ヘリングとも生前に交流があったんですね……もう出てくる人たちが謎すぎます……。

当時はテンション上がりましたよね。それから21才の頃に、芝浦GOLDがオープンしたので古巣の西麻布から拠点を移して、3年ほど毎週末金曜にレギュラーでDJを始めました。

――GOLDというと、N.Yのセイントでレギュラーを持ち、日本人DJとして本格的に海外で活躍をしていたNAO NAKAMURAさんを思い出します。

NYに住んでいた時のNAOちゃんは本気で凄かったです。NAO NAKAMURAと言えばN.Yでも当時3番目くらいにギャラの高いDJで、パラダイスガラージのラリー・レヴァンに、セイントでNo.1 DJのウォーレン・グラッグ。その次に並んでいると巷で言われていましたからね。N.Yのクラブ業界に居る日本人の中では出世頭な感じでした。今でも病気で亡くなったことは本当に残念です。グルーヴ/ドライブ感を、曲と曲とでミックスする事で紡いで行くこと。歌詞で物語ができること……沢山DJとしての勉強をさせてくれました。僕的には海外のDJよりも一番影響を受けたDJはNAOちゃんでしたね。好きな選曲は違うんですが、DJとしてのフィロソフィーを、DJを通して勉強させて頂いた感じです。

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