豊間根 いよいよそこから始まるわけですね。
日高 向こうにしてみれば、年間通してずっと面倒見ているゴルフ場を「ぶっ壊せ」って言われているんだから、相当ムッとなるよな(笑)。でも俺らから見ればさ、夏に誰も来なくなっているゴルフ場なんてぶっ壊して、イベントをやった方がビジネス的には絶対いいって思ったんだよ。そう感じたからそう言ったわけだし。でもね、元々あった施設をぶっ壊してイベントをやろうとしたら、普通の会社だったら、やれ稟議書だのハンコつけだのって、1ヶ月ぐらいはかかるはずだよね。でもまあ、あの堤さんだし、一週間ぐらいだろうな、って思っていたら……3日で答えが返って来た(笑)。「やります」って。もう現場は怒り狂ったと思うよ、口には出さないけど。今は<フジロック>のことを大好きだから問題ないけど。その当時はね。
豊間根 いやー、そりゃそうですよ……。自分らの施設を「ぶっ壊せ」って言われているわけですから。
日高 プリンスホテル自体は、代表がやるって言えば誰も反対しない。でも地元の人は違うからね。俺は正直に「ゴミは出ますよ。(来るお客さんは)刺青に茶髪にピアスですからね」って言うしさ(笑)。でも地元の人には冗談は通じないよ。それでも宿場町だから、ビジネス的な判断も働くはずだって思ったんだ。
地元の説明会の時に反対派の人がいてさ、その人が立ち上がって俺に向かって言ったんだよ。「お前ら、体制派の成り下がりが!」って。「あー、この人70年代の“安保崩れ”なのかな」って思ったね。“安保崩れ”のくせしてさ、自分はあの辺にホテルとか立てて儲かっているんだよ(笑)。で、さすがに俺もムッとしてさ、彼が言ったことを全部書き出したんだよ。97年に天神山スキー場で何があったかとか、死人が出たとかさ、全部嘘だらけなんだよ! それを一個一個書き出して、俺が「実は、これはこうです。これはこうです。だから全部嘘です」って説明していったら、最後まで言わないうちに(説明会の会場から)逃げて行っちゃった(笑)。最初はそういうこともあったんだよ。
フジロッカーズ・オルグのインタビューで、レイ・ハーン(BEATINK代表)が「マサは当時、一年中ほとんど苗場にいるようなものだった」って話していて。その中で「いろんなステージがありますけど、あれはどういう経緯で作ったんですか?」という質問に、レイが「あれは全部マサのものだよ。西から東まで、全部マサが考えたんだよ」って言っていたけど、まあそうだとも言えるかな。
99年、あの時に“フィールド・オブ・ヘブン”が出来たんだよ。
豊間根 日高さんが初めてその場に足を踏み入れた時に、「ここはフィールド・オブ・ヘブンだ。ここで3日間フィッシュだ!」って言ったっていう伝説は本当ですか?
日高 本当。あそこを見た瞬間に、その場でバッとビジュアルが思い浮かんだんだよ。「ここはフィールド・オブ・ヘブンだ」ってね。(ヘブンのステージエリアを見る前)ホワイト・ステージまでは見ていたんだよ。まだ一面雪だったけど、だいたい分かるんだよね、広さが。それで、ここがセカンドステージだって思った。雪が積もっていて、一面“白”だったし、ここは“ホワイト・ステージ”だと。実は、ホワイト・ステージより奥は、雪が厳しくて見てなかったんだよ。それで、5月の連休だから……本番まであと2ヶ月ほどしかないタイミングで見に行って……歩いていくと……あそこは広い駐車場で、広い森林に囲まれたスペースに辿り着いた。そこを見てすぐに「ここでやろう」って思った。“フィールド・オブ・ヘブン”瞬間的に名前が出てきた。それで「ステージはここ」とかまで決めてね。そうやって、その場で色々思いついた結果、3日間フィッシュになったというわけ(笑)。それからは(フィッシュへの)交渉が大変だったよね。だってアメリカツアーのスケジュールが入っちゃっていたから。それを全部外して、来てくれたんだよ。99年の<フジロック>の会場で、(フィッシュの)ギターの人が俺に「ありがとう。君は俺たちのことがよく分かっている」って言ってくれたけど、ありがたかったな。
豊間根 苗場初年度で、いきなり3日間、5ステージ。
日高 “レッドマーキー”はなかったけど、ダンスステージは99年からあったよな。あと若いバンド用にステージを作った。そこからデビューして大きくなったバンドは結構いるよ。
豊間根 会場のレイアウトを含む、現在の<フジロック>のひな型と言える形が、苗場初年度の99年にすでに出来上がっていたわけです。
日高 うん、まあスタッフは大変だったよね。初めてだろ? まあ(開催)2ヶ月ぐらい前に「新しいステージ作れ」なんて言われたら、誰だってムカッとくるよね(笑)。でもステージだけ作って、ほったらかしってこともあったんだよ(笑)。俺が飾り付けの指示までしていたのに、何も出来てなかった。ただステージを作って屋根があるだけ。俺もムカッときてさ(笑)。
5月か6月頃、よく行くイタリアン・レストランで、スタッフたちと食事会をしたんだよ。そこに、当時非常に有名な勝ち馬だったオグリキャップのオーナーだった小栗さんが来ていたんだ。その人は北海道にでっかい牧場を持っているわけ。その人を紹介されてさ「こういうの(フジロック)をやるんです」って説明だけしたんだ。そうしたら「じゃあ、ラベンダーの花を送っていいですか」って言ってくれたんだよ。届いたら、もうびっくりしたよ。何万本も送られてきたんだから(笑)。良い香りがしてさ。これをフィッシュのステージに飾ろうってことになった。でも(手伝ってくれるスタッフが)誰もいないんだよ(笑)。結局、俺の友達とかカメラマンが会場に入って来たら「君も手伝え」って、とっつかまえて手伝わせたわけ(笑)。
豊間根 99年の開催前に、日高さんは僕に「来れば分かる」と言っていました。その言葉は自信満々に聞こえました。「これは単なる野外イベントじゃないんだ。お客さんもここに来れば分かる」っていう確信が、その時すでに日高さんにはあったんですか?
日高 分かるというか……確かに自信満々に聞こえたかもしれないけど、自信がなきゃ、やってられないよ。自分の中では、97年とは違う場所で、違うイメージの中で、ステージはどんどん増えていく……自分自身が自分をストップ出来ない状態だからね。そんな中で、スタッフにはちょっとでも自信がないような顔は出来ない。やっぱり引っ張っていかなきゃいけない立場だしさ。戦争で言えば、隊長が突撃しなければどうする! っていうことだよね。
豊間根 僕は会場で、「あぁ……これか、あの時日高さんが言っていたのは」と思いました。確かに今まで「僕は分かっていなかった」と実感しました。フェスティバルって「こういうことなのか」と。今現在まで続いている<フジロック>っていうアイデアは、それこそ音楽と自然との共生やごみの問題、アウトドアというライフスタイルまでを提案して来たんだと思います。
日高 97年の時にお客さんのテントを見たんだよ。これじゃあ、台風が来たらもたないぞ、って思ったもん。簡易のテントというか、これじゃあ2日間もたないよなって。そういう体験が、アウトドアと音楽を結びつけたキッカケになったとは思うよ。
俺だってビックリするよ。<フジロック>のお客さんの、雨が降ってきた時のあの着替えの早さとかさ。テントや雨の時の服装も、やっぱり良いものでないと持たないよね、自然の中じゃ。だから、今の<フジロック>のお客さんの装備を見ると、みんなちゃんとしてる。それはいいことだよ。それを違うところでもいっぱい使って欲しいとも思うね。<フジロック>だけじゃなくて、レジャーでもさ。
★(オレンジコートがなくなったのは)お客さんが入らないから、っていうことが理由ではない
インタビュー続きはこちら TALKING ABOUT FUJIROCK:日高正博
photo by 横山マサト
interviewd by Satoshi Toyomane
text by Shotaro Tsuda