国内トランスシーン、そしてアンダーグラウンドパーティ・レイヴカルチャーの代表として

ーー箱を中心として国内での活動をはじめた<ソルス>ですが、2000年に野外パーティ<SMF>へと開催にいたったのはどういった理由からなのでしょうか?

僕たちはヨーロッパで遊んでいることが多かったですが、向こうでは野外パーティはより身近なものであり、そういったものを見てきた背景から、やるからには日本でもしっかりとした野外のロケーション、それにワールドクラスのパーティをやりたいと思いました。自然の中で気持ちよく音楽を聴く。そしてラインナップも自分たちが聴いて、「格好いい! 日本の人たちにも聴いて貰いたい!」そう思った人たちを呼びました。

ーー2001年の<SMF>のDVDでもCHIKAさんは、<Glastonbury Festival>や<BURNING MAN>の話にも触れていますよね。

ロックフェスはロックフェスで日本でも海外の有名なアーティストを呼ぶ人が現れると思っていましたし、それを日高さんは<フジロックフェスティバル(以下、フジロック)>で実現しました。日高さんが作り上げたいものは当時からブレていないと思いますし、とてもリスペクトしています。僕たちはブライアン・バートンルイスと繋がっていたので、日高さんを紹介してもらって最初の3〜4年はお手伝いもさせて頂きました。

ーーロックを中心とした<フジロック>、エレクトロ・ミュージックが軸にある<SMF>は国内野外フェスの聡明期の代表的存在でしたが、相対的なものだとも感じていました。

確かに<ソルス>はエレクトロ・ミュージックで国内野外フェスティバルを本格的に早い時代にやりはじめましたね。同時期に<サマーソニック>、少し後に<ロッキンオン>がはじまりましたが、この15年程でフェスティバルカルチャーがここまで大きくなったというのは、とてもいいことだと思っています。

ーー度々DVDの話ですが……学生時代に<SMF>のDVDを見た時には、こんなことが日本で行われているのか! と衝撃を受けました。

2000年は3000人のお客さんを満足させるための環境づくりの準備をしていましたが……6000人。2001年は、昨年集まった6000人のお客さんを満足させることを想定して、会場を移して開催したら10000人。2002年はもうこれ以上伸びることはないだろうと思い、「9000人のお客さんが満足できる環境を作るぞ!」と、準備をしたら12000人も集まってくれました。毎年対応に追われ、設営の時と撤収の時以外はステージを見ることなく終わってしまいましたが、あの当時は自分たちのやりたいことと、お客さんが求めているものが合致していたと思います。

ーーそれから<ソルス>が大きくなる中で、シーンも盛り上がり様々なオーガナイザーが主宰するパーティが野外や大箱などで開催されてきましたね。

それはとても良かったと思っています。火つけ役になり、僕たちより若い世代のオーガナイザーたちがパーティを開催することは理想でもありました。その中で僕たちは僕たちで真剣に打ち込めるパーティを開催するということに変わりはなく、「面白いことやろう!」それを続けていくだけです。そしてやるからには妥協は絶対にしませんでした。さらに僕たちは周りのクルーに恵まれていましたね。

ーー自分たちが面白いと思い、楽しめるものを作る。

それはイコールでお客さんの目線になって考えるということ。パーティは興行でもコンサートでもないですし、3日間も開催するので、時間の流れはとても大切です。DJのセレクションから、音響や音量は朝、昼、夜と時間によって調整もしますし、ひとつのグルーヴを作って行かないといけない。せっかく来たなら楽しんで、「一生忘れられない!」、「あのパーティに行ってよかった!」そう思ってもらえるようなものを作りたい。その気持ちがなかったら僕たちがやっている意味はないんです。

SMFが8年ぶりに開催!記憶に残るパーティを作るということとは solstice7

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