──へええ。そのコアとは一体なんでしょう?
一言でいうなら、ブレス(息)です。玄祥先生のパフォーマンスを見ていると、舞台上のすべての演者たちが、それぞれの呼吸の間合いを完璧に理解しあっている。それによって素晴らしい緊張感が生まれています。実はアヌーナも同じで、声質も音域もまったく違うメンバーがテレパシーを持っているように息をぴったり合わせ、あたかも1つの生命体のごとく有機的なコーラスを響かせます。母国のアイルランドでもなかなか理解してもらえないけれど、もともと僕が目指してきたのはそういう種類の音楽で……。
──アヌーナの楽曲はどれも、ポリフォニックな声の響きがきわめて複雑かつ緻密に構築されていますよね。それがオーガニックな印象を与えるけれど、いわゆるケルティックな雰囲気だけを強調したヒーリング・ミュージックとはまったく違う。
まさに。1987年に僕がアヌーナを結成した際、それはコラール音楽の世界で革新的なアプローチだったんです。そういう組み合わせならば、安直なコラボレーション(共同作業、合作)ではなく、むしろ互いが自分たちの本領をフルに突き詰めることで、価値ある表現が生まれるかもしれない。正反対の結果になる可能性も、まあ、絶対にないとは言えないけれど(笑)。心配はしていません。
──そういえば10月末に国立能楽堂で行われた記者会見で、玄祥先生も「このぐらいでいいだろうという程よい表現が一番つまらない」「互いの持てる力をぶつけ合い、どうせなら大失敗を。」と笑っておられましたね。よくあるコラボ企画とは一線を画したいと。
まったくもって同感です。ちょっと意地悪な見方だけど、コラボレーションって言葉にはどこか嘘くさい響きがあるでしょう。ステージ上で軽く手を握り合って、「なにか面白いことが起きたらいいですねぇ」みたいな(笑)。フュージョン(融合)って表現はもっとひどいよね。個人的には、音楽業界でもっとも醜悪な言い訳じゃないかと。
──ははは(笑)。仰りたいことはわかる気がします。
身体表現って、そんな簡単なものじゃないと思うんですね。今回の『ケルティック能』で僕が目指しているのは、フュージョンとはむしろ逆の方向性。自分がもともとアヌーナでやろうとしていた原点に立ち返って、そのエトス(芸術的な美質)を強く打ち出すこと。それが舞台上で能と折り合うポイントを見出す、唯一の方法じゃないかと考えています。アヌーナは来年、結成30周年を迎えます。実はこの数年、次の展開に悩んでいた部分もあったんですが……。
──ちょっと意外ですね。
お気楽そうに見えて、いろいろ悩みがあるんですよ(笑)。でも外部からの刺激によって自らを見つめ直すという意味で、今回の共演が、次のフェイズに進む転機になってくれるかもしれない。あるいは終演後、「もはやアヌーナでやるべきことは残っていない」と、グループの解散を決めているかもしれない(笑)。それくらいの覚悟は固めています。
──そう考えると、結成30周年のタイミングで『ケルティック能』のオファーがあったのは運命的だったかもしれませんね。もともと梅若家は『鷹姫』という演目と縁が深く、玄祥先生ご自身もたびたび演じられています。ご覧になったことは?
まだ『ケルティック能』の企画が持ち上がる前、(舞台の企画・制作を手掛ける)プランクトンの川島恵子さんに教えてもらって映像を観たことがあります。すごい衝撃でした。まず玄祥先生のような堂々たる男性が、鷹姫という女性になりきっていること自体が驚きだったし。あとは、なんといっても舞の力強さです。その深みや、パフォーマンスに表れた芸術性には怖さすら感じました。これまでもアヌーナは素晴らしいアーティストの方々とたくさん仕事をしてきましたが、今回の緊張感には格別のものがあります。
──そんな玄祥先生と、どうやって舞台を作りあげていこうと?
うーん……先ほどの発言の繰り返しになってしまうけれど、やっぱり怖れずに自分を出すしかないんじゃないかな。まだ本格的なリハーサルは先だけど、先日の打ち合わせで玄祥先生が、かつてマイヤ・プリセツカヤ(20世紀を代表するロシアのバレエダンサー)と共演したときの話をしてくれたんです。
──2008年、世界遺産・上賀茂神社で上演された舞台ですね。
マイヤは細かい事前の擦り合わせなどはほとんど求めず、いきなり身体を動かし、踊りによって玄祥先生に自分のアイデアを伝えていったそうです。もちろん<ケルティック 能『鷹姫』>用の楽曲は事前に書き下ろし、コーラスも完璧に仕上げた状態でやってくるつもり。でも、舞台の命となる微妙な呼吸については、そうやって現場で魂を交感させるのが望ましいと思っています。あと、これは僕の勝手な想像ですけど、玄祥先生もアヌーナと同じで、能の世界では異端児として生きてこられたんじゃないかなと。だからきっと相性は良いはずですよ(笑)。
──新作能『鷹姫』の舞台は、岩だらけの孤島。榛(はしばみ)の木立に囲まれて枯れた泉があり、そこから湧き出る水を飲むと“永遠の命”が得られるといいます。その水を求め言い争う老人と若き王子、泉を守る魔性の鷹姫をめぐる物語ですが、マイケルさん自身はここから何をイメージし、どう解釈されていますか?
寓話性の高い内容で、人によっていろんな受け止め方ができそうだけど、僕自身はすごくシンプルに考えています。まず物語の前面に出てくる老人と王子。この2人は同一人物のように僕には思える。永遠に若くありたいという気持ちと、老いていく現実というのは、すべての人の内面で常にせめぎ合っているでしょう。『鷹姫』では2人の諍いを通して、若さと老いが追いかけ合う、ある種の輪廻観を描いているんじゃないかと。
──ああ、なるほど。
登場人物たちが探している“不思議な水”が本当に存在しているのかどうか最後まで明かされないのも、面白いですよね。泉は枯れてしまっていて、いつ水が湧き出るかは誰にもわからない。だけど視点を変えれば、彼らはすでに自分たちが求めてやまない“永遠の命”を生きているようにも見えます。玄祥先生が演じる鷹姫はおそらくそういった永続性、はてしなく繰り返す自然を象徴しているのではないかと。それは人にとっては、現世の向こう側にある“異界”でもある。