激動の近代史の中でも、偶然にもこの町は情緒あふれる地域として形を残す事ができた。そして、地域住民や地域にゆかりある人たちから優しく和やかに、それまでの生活を守りながら、町並みも現在まで引き継がれてきた。このように、街並みのみならず文化的にも長い歴史をもつ谷根千は、ここ10数年で数多くのメディアに取り上げられ、訪れる人は後を絶たない。また、他の地域に比べゆったりとした流れに沿っているが、新しい文化やお店たちも生まれ、飲食店に雑貨屋など、この地域らしさのある味のあるお店たちがこの町とともに歩みを共に軒を連ね、風情を残しながら融合し、さらなる魅力を添えてくれる。
そして、また新たにこの町の風情や文化と歩みを共にする場所が生まれた。しかしながら、その場所というのは美容室である。美容室というとガラス張りにライトアップされているイメージがあり、町の景観や風情は変わってしまうのでは。そんな風に思い浮かべてしまうが、足を運んでみるとそんな事はなかった。一見したらまるでこの町が形成された時代から存在していた長屋で、建物の中では昔ながらの生活がそのまま続いているような雰囲気であり、入り口は初見では解りにくいが、建物に入る時には隠れ家のようなワクワク感さえ感じさせてくれる。この美容室の存在は、昨秋に友人を介して「町の風情と文化を守りながら美容室を開業する人がいる」と聞き知る事となり、興味が湧いた私はその方を紹介してもらい、完成までに数回足を運ばせてもらった。美容室の名前は『いと』。オーナーの許陽子さんは、山野美容専門学校を卒業後、16年間美容室にて、スタイリスト・店長・マネージャーとして勤務し、美容技術とマネジメントの実績を積んできた。しかしながら陽子さんは、なぜこの町で昔ながらの長屋を選び、美容室を開業しようと思ったのだろうか。
『いと』外観
許陽子さん
「私はあれこれと目移りが激しいんです。それでも、ずっと美容を仕事として続ける事ができたのは美容が好きという事はもちろんですが、“美容にも昔から受け継がれてきた文化があるおかげかもしれない”。そのような事を考えはじめるようになって、昔の建物が残る谷中で美容室をやりたい。そう美容の歴史と町の歴史がリンクしたんです。それと“温故知新”という言葉が好きなので、『いと』で“温故知新”を表現できたら素敵だなと思ったんです。」この建物について尋ねると、築年数は約100年。これまでの長い歴史の中でこの建物は、お米屋さんの倉庫として、その後は大家さんの親戚の住居として使用されてきた。また、このような物件はアパートやマンションを借りるように簡単に選べるものではないのだが、偶然にして『いと』の前は『パーマまさえ』という美容室が営まれていたという。この偶然のとも呼べる出会いとはどのようなものだったのだろうか。「私が勤めていた美容室にずっと通ってくれていた大学生の男の子がいたんです。約10年が経ち、今ではすっかり大人になって、友人になりました。その友人が東京藝術大学で教授をしている椎原晶子さんを紹介してくれて、この建物に出会いました。そしてこの建物が元々美容室だったという事も知り、美容室だったという場所と、町の文化や風景を守りたいという想いから、この場所で『いと』として歴史を継ぐと決めました。それと、この建物を初めて見にきた時に、奥に離れがあるという所にも魅力を感じたんです。『いと』は長屋の奥の離れで営んでいますが、普通の美容室というと、通りにあってガラス張りのイメージが強いと思います。そのガラスを覗くと綺麗になる過程をみる事ができて素敵ですが……私は綺麗になる過程を通りで人に見られながら仕上がっていく姿より、仕上がった姿で、この建物の離れから出ていく人の姿や気持ちを想像してみたら、なんだか素敵だなと思ったんです。」とはいえ、強い意志と情熱から決心したものの、築100年の建物である。まずは何からしてよいのかと悩んでいたという。そんな折に、ここでもまた、友人から陽子さんの夢の原点になった、入谷のゲストハウスを造った大工さんを紹介してもらう事ができた。そして、改装作業からは陽子さん自身も指導を受け、可能な限り改装をしたという。私は『いと』に改装途中の段階で初めて足を運んだのだが、外観も含めて「本当にここが美容室になるのか」と、まったく想像のつかない状況だった。陽子さんも改装をはじめる前から、すでに大変さを感じていたそうだ。
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