だ信じられないでいるが、LFOことマーク・ベルが先日亡くなってしまった。何らかの病のための手術治療後に合併症をわずらい、43歳という非常に短い人生に幕をおろしてしまった。UKテクノの歴史を語る上でLFOは欠くことのできないアーティストであった。強烈なブリブリ・ベースとビート、それと洗練されたシンセ音を身上とした彼の独特なサウンド。名門レーベル〈Warp〉の創世記を支え、才媛ビョークを筆頭とした数多くのミュージシャンやリスナーに愛された彼は何者だったのか。ここでは敬意を持って足跡をまとめて紹介したいと思う。

1990年の1stシングル“LFO”。自身の名前(当初はマークとジェズ・ヴァーレイの2人ユニットとしてスタート)を冠したこのリリース時は、シカゴやデトロイトで生まれた“テクノ”がヨーロッパに渡り華を開いた時期であった。当時20歳そこそこのまだ幼さも残るマークたちもそんなテクノの魅力に取りつかれ、衝動的に作り上げた、どこかやんちゃでフリーキーなこのテクノ・トラックである。

LFO – “widescreen remaster”

今もなお輝きを持ち続けるこの曲は、ブリティッシュ・テクノを盛り上げ、当時そんな喧噪の中で立ち上がった〈Warp〉レーベルの創世記を支える大ヒットとなる。この1年後のデビュー・アルバム『フリーケンシーズ』(1991年)は「イギリスでヒットした最初のテクノ・アルバム」と称され、サウンドは本当に衝動的なものであった。テクノという未開発かつ自由な遊び場で、子供が新しいおもちゃを買ってもらったような感覚で機材をいじりまくって作られたようなこのアルバムを、マーク自身も「このアルバムはこの時期の趣味の音楽だった」と言い切っている。しかし、趣味性に価値があることを理解し実践した彼らは本当に素晴らしかった。

その趣味性から発生したものが一つの極みとして結晶化されたのが2nd『アドヴァンス』(1996年)であろう。アルバムに先行してリリースされたシングル“Tied Up”からも分かるような攻めの姿勢がここにある。おもちゃのように扱っていたシンセサイザーを手足のように扱い、当時呼称されていた「ブリープ・テクノ(ブリープ=Bleepとは「発信音」「信号音」の意味を指す)」の完成形を作り上げる。彼らが影響受けたテクノのオリジネーターであるデリック・メイはLFOに対して「彼らのやってることは全てデトロイトの焼き直しだ」と憤慨したが、正直彼らの台頭にビビっての発言だったのか・・。

LFO – “Tied Up”

このアルバムを最後にパートナーであったジェズとは友好的に袂を分つ。その理由として「チェズはもっとハードなクラブ・トラックを作りたがっていたし、ぼくはどちらかというとプロデュースなどの時間を取られるようになった」からだと言う。この頃から言葉通りマークはプロデューサーとしての転機を迎える。いまでこそ大物アーティストが外部プロデューサーを招きアイデアを得ることが多いが、当時ビョークがLFOを起用したことはカッコ良さ=クールさ、しかなかった。ソロとなったビョーク自体の目利きももちろんすごかった。1st『デビュー』はソウルⅡソウルのネリー・フーパー、2ndでは808ステイトのグラハム・マッセイ、そして3rd『ホモジェニック』(1997年)以降はマークが中心となって担当。2011年の『ビオフィリア』まで制作に関わり続けたが、その中でも彼女の声やアーティスト性と一番マッチしたのはマークだと筆者は思う。

BJÖRK – “Hyperballad”/”Freaks”/”Pluto”[excerpt](Live at Echo Beach, Toronto, 16 July 2013)

★この映像は最近のライブでは定番の「ハイパーバラッド」からのLFO「フリーク」のマッシュアップ。

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