みなさんこんにちは。コラムやTwitterでよく書かせて頂いていますが、僕は子どもの頃、学校などで将来の夢を聞かれると必ず「小橋建太」と書いていました。
以前コラムでも紹介しましたが、小橋さんはジャイアント馬場さんが創設された全日本プロレスにて、三沢光晴・川田利明・田上明とともに「四天王」と呼ばれ、幾多もの歴史に残る名勝負を繰り広げました。その後三沢さんが創設されたプロレスリング・ノアに移籍。全日時代と同様に小橋さんが出る試合は全試合が全力の名勝負。そんな小橋さんのまっすぐなプロレス、相手の攻撃を正面から受けて正面から返していく男らしさに、少年だった僕は夢中になっていました。
引退後はご自身で興行を主催されたり、多くのイベントに出演されたり、様々な活動をされてらっしゃいます。先日の全日本プロレス両国大会でリングに登場された時は、涙ぐむ人がいるほど場内大歓声で盛り上がりましたね!
実はこの度、その憧れの小橋建太さんにインタビューさせて頂いたんです! コラムを初めてこんなにも緊張したのは初めてだったし、コラムをやってて良かったと心から思えた時間でした。
今回は小橋建太さんのプロレス人生について、生き方について、ご自身の腎臓がんの闘病生活について、現在積極的に協力されている「がんの子どもを守る会」という活動について、本当に素晴らしいお話を聞くことができましたので、ぜひご紹介していきたいと思います。
それでは、みなさんも握りこぶしの準備はできましたか? インタビュー、「いくぞー」!!
Interview:小橋建太
——1度大手企業就職したにも関わらず退職してプロレスラーを目指されたという事ですが、プロレスラーになりたいという夢はずっとお持ちだったのでしょうか?
小学5年生の時に初めてTVでジャンボ鶴田vsミル・マスカラスの試合を見て、その時からプロレスラーになりたいという気持ちはありましたね。
ジャンボ鶴田 vs Mil Máscaras UNヘビー級戦 ★1977
中学を卒業したら入門テストを受けようとしたんですが、全日本プロレスから高校を卒業してからでないと受けられないと聞いたんです。それで高校に進学して、卒業する時にまた就職するかプロレスに入門するかどうか迷いました。女手一つで育ててくれた母親のことを考えると、その時は自分が働いて自立することが一番だと思い、一度は「就職」という道を選択しました。しかし半年くらい経った時ふと新聞を読んでいると、当時まだ駆け出しの頃のマイク・タイソンについての小さな記事を発見しました。彼はスラム街出身で少年院を出たり入ったりしていたけど、ボクシングで連勝を重ねていて「新星が現れた」といった内容が書かれていました。その記事を見た時に「プロレスラーになりたい」という夢がまたふつふつと湧き上がってきて、何かを理由にして諦めるのはやめようと思ってプロレスラーへの道を志しました。何もしてないのに諦めるのが嫌で、とりあえずトライしてみたかったですね。それから1年半かけてプロレスラーになる体力準備をして、全日本プロレスに入りました。
——その1年半って毎日どのようなトレーニングをされていたんですか?
とは言っても一体どんな練習をしたら良いのかわからないですから、とにかく毎日走っていましたね。ランニング、スクワット、腕立て伏せを主にやってました。高校の時は柔道をやってたので90kg弱くらいあったんですが、その頃は80kg以下に落ちていたので体重もしっかり増やせるように頑張りました。
——プロレスラーになる以前、憧れたり目標とされたりしていたレスラーはいらっしゃいますか?
プロレスラーはみんな好きで、もちろんジャンボ鶴田さんやザ・ファンクス、ミル・マスカラスも好きでした。マスカラスのグッズがもらえるプレゼントキャンペーンには、必ず応募してましたね(笑)。でも僕はやはりジャイアント馬場さんが1番でした。今になって考えると、僕は昔から父親がいなかったので、馬場さんに父親像みたいなものを感じていたのかもしれないです。馬場さんに関しては、しばらくの間付き人も務めさせて頂きました。
——馬場さんの荷物はすごく重いという噂を聞いたことがあるのですが。
そうですね、約40kgはあったと思います。馬場さんの荷物がすごく重いから本当は1番置いていきたかったのですが、1番置いていくわけにはいかない大切な物なので(笑)。バッグにはローラーが付いていたのですが、馬場さんから「プロレスラーが転がして運ぶのはかっこ悪い。持ち上げて運べ。」と言われて。自分のバッグと小道具とかも合わせると、いつも70kgぐらいの荷物を持ち上げて移動していました。馬場さんのバッグの取手が何度壊れたことか……その度に修理して、また持ち上げて運んでいました。昔の東京駅はエスカレーターが無く全部階段で、その荷物を持って移動するのが大変だったんです。ある時「一体何kgあるんだろう」と思って空港の荷物検査で測ってみたら「40kg」って表示されて、やっぱりそんなにあるのかと驚きましたね。
——そういった習慣は小橋さんの下の世代にも受け継がれているのですか?
そうですね、今は若手が少ないということもあり、昔ほど付き人制度みたいなものは聞かなくなりましたが、そういった習慣はあった方が良いと個人的には思います。師匠の色が付くというのもありますし、付き人を務める中で学ばせて頂くことも本当に沢山ありますから。
——デビュー当初から引退まで変わらなかったファイトスタイルの中で、自分の中にずっと持ち続けている座右の銘みたいなものってありますか?
僕がずっと持ち続けている言葉は「一生懸命」という言葉です。ただがむしゃらに頑張るというのもそうですし、やれることを必死で頑張って立ち向かっていくという意味で、「一生懸命」とう言葉を自分の中に持っています。僕にとってはベビーフェイスとかヒールとか、そんなものは関係ないんですよ。
——確かに、当時の全日本プロレスのレスラーは特にヒールといったファイトスタイルが無く、デンジャラスな技を正面から受けて、一生懸命に立ち向かっていくレスラーが多かったですね。
まぁプロレスに危険でない技はないですし全ての技自体が危ないから、当時の技が特にデンャラスという意識はないですが、人が真似できない事をやるから「プロ」なわけで。僕の中ではただ危ない事をやっているという意識ではなく、プロとしてのプライドを持って技を受けていました。みんながイメージしている事を上回る何かがあると、お客さんも驚くじゃないですか。その新鮮な感覚をお客さんに提供するのがプロレスラーだと思います。
スティーブ・ウィリアムスのバックドロップも強烈なムチ打ちみたいになるんですが、正面から受けきるのがプロレスラーだし、「やれるもんならやってみろ」という逃げない姿勢で試合にのぞんでいました。もちろんできるだけやられたくないんですが、踏ん張っても強引に持っていかれてましたし。
スティーブ・ウィリアムス バックドロップ特集
でも、スティーブ・ウィリアムスは色々と新しい事をやろうとするタイプのレスラーなんですよ。だからみんな、何がくるかわからないのもあって闘うのを嫌がったりしてましたが、僕は彼と試合するのが好きでしたね。彼との試合は予想しないところから何かが生まれることが期待できました。ファンをドキドキワクワクさせる為には、まずは自分がドキドキワクワクする必要がありますからね。だからこそ自分のファイトにはプライドを持っていました。自分が自信を持つ為に何をすれば良いのかを考えて、必死に練習しましたし、必死に試合にものぞみました。