1990年代後半から2000年代初頭にかけて、<RAINBOW 2000>や<METAMORPHOSE>、<FUJI ROCK FESTIVAL>といった野外フェスの常連として知られ、数々の伝説的なステージを披露してきた屈指のダンス・アクト、DUB SQUADが実に16年ぶりとなるオリジナル・アルバム『MIRAGE(ミラージュ)』を発表する! 新曲5曲が収録されたDisc 1と、System7、砂原良徳、空間現代、DUB-Russell、ZANIOによる新曲のリミックスが収録されたDisc 2の2枚組でのリリースとなる。

今回はメンバーである中西宏司、山本太郎、益子樹の3人に揃って話を伺うことができた。DUB SQUADが結成された1993年は、東京のクラブ・カルチャーにおける黎明期。彼らはそんな手探りの時代のアンダーグラウンドなパーティの現場で産声を上げ、その熱狂とカオスの中で、変化自在にサウンドをカスタマイズし、進化させてきた。彼らによる当時の貴重な証言はDUB SQUADのサウンドを知るための大いなる手掛かりになるだろう。まずは彼らが結成された1990年代初頭にタイムスリップしてみよう。

Interview:DUB SQUAD

【インタビュー】フジロック等数々のフェスで伝説的なステージを披露。DUB SQUAD、16年ぶりの新作とこれまでの歩み interview170526_dubsquad10
1996年、アムステルダム、オランダ

益子「その衝撃というか、衝動のようなもので何かやってみようというのがDUB SQUADのはじまり。」

——16年ぶりのニュー・アルバムですね(笑)。

益子樹(以下、益子) そうですね(笑)。

——若い読者も多くいると思うので、改めてDUB SQUADとは何者なのか? どのように結成されたのか、そこから振り返っていきたいと思います。

益子 はい。1992年にロンドンに行って、中西君も同じ時期にロンドンに行って、二人とも現地のクラブやレイヴ・パーティに大きな衝撃を受けたんです。その時の「すごいものを体験した」という共通の感覚があり、その衝撃というか、衝動のようなもので何かやってみようというのがDUB SQUADのはじまり。

——なぜロンドンに?

益子 ドイツに旅行に行く予定だったんですけど、その頃東京で遊びに行っていたパーティでカムラ・アツコさんという人に出会って。カムラさんはその頃ロンドンを拠点に活動していたフランク・チキンズという日本人女性2人組のグループのメンバーで、その昔、水玉消防団というバンドをやっていた方でもあるんですけれど、僕が「今度、ドイツに行くんです」という話をしたら、「だったらロンドンにも遊びにいらっしゃいよ」って話になって。それがきっかけでロンドンにも寄り、カムラさんに連れられてレイヴやクラブに遊びに行ったんです。

山本太郎(以下、山本) フランク・チキンズはイギリスでカラオケを流行らせたことでも知られていて、当時、ニュースとかで取り上げられたりもしていたよね。

益子 そうそう。カムラさんは僕らにとってかなりのキーパーソンなんですよ。実はカムラさんは僕がロンドンに遊びに行く前に、ROVOの勝井さんやDJ HIGO、DJ FORCEとか、何人かをロンドンに呼んでいて、彼らをレイヴに連れていっているんです。で、みんなそれぞれに衝撃を受けて帰ってきて、当時まだ日本になかったハードコア・テクノ、ブレイクビーツ・テクノのパーティをはじめるんです。そのひとつが<WATER>というパーティで、僕はそこでカムラさんと出会ったし、中西君もそこに遊びに来ていたひとりなんですよ。カムラさんがいなかったらROVOもDUB SQUADもなかったとも断言できます。

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2000年、”3D 10周年時<WATER>フライヤー” 王子、東京

——すごい方ですね(笑)。

益子 時代的には、日本のクラブ・シーンの黎明期という感じの時期で、まだディスコの残り香もあった。当時のディスコはドレスコードがあったり、クラブ・カルチャー的なものにたぶんまったく理解がなかったから、カジュアルな服装で、一晩中ブレイクビーツ・テクノで踊るというパーティは理解されず、場所を貸してもらえなかった。だから<WATER>はライブ・ハウスの深夜枠を借りてパーティをしたりしていた。代々木のチョコレート・シティをよく使っていましたよ。

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2000年、リキッドルーム/新宿、東京

中西「DJもMCもお客さんも照明さんもスタッフもみんな同じ位置で、等価の立場であり、みんなでその“場”を作り上げているというように感じたんです。」

——益子さんと同じ時期に中西さんもロンドンに行っていたということですが、どういう部分に衝撃を受けましたか?

中西宏司(以下、中西) 僕が知っているそれまでのライブって、ステージにいる誰かの演奏や歌を聴いて盛り上がるという図式のもので、別にそれに疑問を感じていたわけではなかったんですけれど、ロンドンで体験したレイヴやクラブ・パーティは、ある意味、ステージなんてどうでもよくて、DJもMCもお客さんも照明さんもスタッフもみんな同じ位置で、等価の立場であり、みんなでその“場”を作り上げているというように感じたんです。そこに新しい発見というか、驚きがあった。極端な話、DJに背を向けて踊ってもいいわけですよね。ああ、こういうことをバンドでやってみたいなって思って。だから初期のライブでは、ステージに上がらず、お客さんと同じ位置でやったりしていたよね。

益子 そうだね。単にステージに上がらないだけだと面白くないから、ステージにスクリーンを張って、自分たちで作った映像を流しながら、PAのほうで演奏をしたりということも試したね。でも実際にやってみると、お客さんはスクリーンの方を見ずに暗いこっち側(PA側)を向いてしまう。なかなか難しいなと(笑)。

——当時はどんな場所でライブをおこなっていたんですか?

益子 最初はライブ・ハウスでもやっていて、クラブだと大きめのパーティのチルアウト・スペースのような場所が多かったです。

中西 メイン・フロアはトランスのDJで、僕たちはサブのチルアウト・スペースみたいなね。メインはフロアライクなDJがやることが多かったけど、チルアウト・スペースでやるDJって自由度が高く、ジャンル的にもいろいろで、僕たちのようなライブ・アクトも出ることができた。

山本 僕たちが作っていたサウンドもそんなにフロア向けという感じではなかったし、その頃は踊らせるということもあまり意識していなかったしね。

——ファースト・アルバム『Dub In Ambient』は文字通り、ダブであったり、アンビエントの要素の強い作品で、たしかにあのアルバムを聴くと、当時はダンスをそこまで意識的していなかったのかもしれないと思いました。

益子 あのタイトルは勝手に向こうのレーベルの人が付けたんだけどね(笑)。

——そうだったんですか(笑)。でもアルバムのサウンドをわかりやすく表現しているようにも思います。

益子 当時、ブレイクビーツ・テクノのパーティに行って衝撃を受けたのは事実だけども、必ずしもそれをサウンドとして表現しようと考えたわけではないんです。むしろ3人でやってみたら、『Dub In Ambient』のようなものが出来上がったということなんです。

山本 ちなみにDUB SQUADという名前は、もともと中西君がやっていたバンドの名前で、レゲエやダブを打ち出したバンドだったんです。僕たちはそのバンドの名前を引き継いだんです。音楽性もメンバーも全然変わりましたけど。

【インタビュー】フジロック等数々のフェスで伝説的なステージを披露。DUB SQUAD、16年ぶりの新作とこれまでの歩み interview170526_dubsquad5
1996年、マッツォ/アムステルダム、オランダ