1980年に任天堂に入社して以降、サウンドエンジニアとして『MOTHER』シリーズや『メトロイド』『スーパーマリオランド』といった人気ゲームの音楽を担当し、退社と前後する形でTVアニメ『ポケットモンスター』の楽曲を多数手がけるなど、様々な活動を通して音楽の魅力を広めてきた音楽家、たなかひろかず氏。

彼が00年代よりライブの現場で使用してきたチップチューンを奏でる別名義Chip Tanakaとして、単独名義では初のフルアルバム『Django』を完成させた。

この作品では自身がその創成期に当事者としてかかわったチップチューンを基調にしつつも、ベース・ミュージックやダブ、テクノ、ロックに至るまで様々な要素が絡み合い、全13曲を通して音楽の歴史が次々に紐解かれていくような、非常に豊かなサウンドが広がっている。

チップチューンの創成期からその発展に貢献してきたこれまでの偉大な足取りと、最新アルバム『Django』に込めた思いを聞いた。

Interview:Chip Tanaka

——田中さんが任天堂に入社したのはファミコンの発売前で、当時は「ゲーム音楽」という言葉もまだなかった頃だったそうですね。

そうですね。そもそも、当時は任天堂自体が世間的に大きく知られてる会社ではなかったんです。基本的には『光線銃』とか『N&Bブロック』のような子供用のおもちゃを開発している会社というイメージで、入社の動機も「おもちゃの音」を作るエンジニアの募集だったので「これは気楽で楽しそうだな」という感じでした。当時は基本的に電子回路で音を作っていく時代で、既にマイクロプロセッサ(CPU)はあったものの、処理能力で言うと2音で2オクターブ程度を出すのが限界でした。

——「ゲームの音楽を作ろう」と思ってはじめた仕事ではなかったのですね。

そうです。その後、任天堂は業務用からゲーム事業をはじめ、その撤退を機に家庭用ゲームに移っていきます。その前に『ゲーム&ウオッチ』(80年に発売された携帯ゲーム機)が結構ヒットするんですけど、それもマイクロプロセッサ(4BIT)のポートを上げ下げして1音しか鳴らせない状況でした。

ただ、当時はコンピュータの創成期で、どんどん色々なものに使われはじめるんです。すると、チップの値段が下がっていって、さらにゲームも流行っていくということが、同時期に起こっていきました。その勢いがすごくあって、処理能力も格段に上がって、それでも3音+ノイズなんですが、徐々に、入社当時にはない「音楽を作る」という仕事も増えていきました。

当然ゲームには効果音が必要なんですが、そういう場合は、音楽で使用してる3音のうちどの音を止めるのか?とか、そういう創意工夫することも仕事でした。

だから、音楽を作るというよりも、商品の音担当という意識が強かったんです。たまたま入った会社で、流れでゲームを作るようになり、あれよあれよという間に音楽担当になってしまい、自分には作曲の才能があるのか?ないのか?とか、そんなことさえ一切考えたことはなかったです。

——いえいえ、そんなことはないはずです(笑)。

いや、これは本当にそうですよ。僕がたまたま任天堂に入って、その会社が大きくなったからそう思ってもらえるんですよ。実際、当時は任天堂で働いているなんて、恥ずかしくて言えなかったですから。当時、任天堂が作ってたような業務用テレビゲームがおいてあるゲームセンターってとにかく印象よくなかったですから。唯一うちの親父が「就職できてよかったね。お前が入ったのなら株でも買おうかな」と言ってくれたぐらいで、その株価も数百円だったのを覚えていますね。

——そこから様々なゲームの音楽を手掛けていく中で、田中さんは並行してバンドもやられていたと思います。その経験がゲーム音楽にも生かされた部分はあったと思いますか?

そうですね。特に初期のゲーム音楽は、すぎやまこういちさんのように、映画音楽のようなアプローチで音楽制作をされてる方が多かったです。僕自身もそういう音楽は好きだったけど、自分の場合は元々ロックが好きで、10代の頃からレゲエが好きで。そういう趣味が、ゲームの音楽を作る上で自然に出てきたところはあったと思います。さっき話したように、そもそも作曲家としてゲーム音楽の世界に入る人の方が多いのかもしれませんけれど、僕はエンジニアとして入った人間だったので。自分なりにプログラマーとしての特徴を活かした音楽だとか、自分なりの趣味性を活かした音楽作りに注力していたのかもしれません。

——当時のお仕事の中でも、特に鈴木慶一さんと手掛けた『MOTHER』のゲーム音楽は、子供ながらに本当に衝撃的でした。あの作品では戦闘シーンでスウィング・ジャズのような音が鳴っているなど、本当に色々な音楽の要素が詰め込まれていましたね。

30歳ぐらいの頃の話ですね。それはもう、そこまで聴いてきた色んな音楽の集大成で。ただ、あそこで取り入れた音楽要素を、糸井(重里)さんが望んでいたかどうかは分からないです。むしろ、僕らが勝手にそうしていった部分が多々あったと思います。

とはいえ基本的には、糸井さんが考えられたシナリオ、その世界観に寄り添うような形で作業を進めました。その中で自然に、ロックやレゲエ、ダンス・ミュージックの要素が入っていたり、現代音楽的な不協和音が入ったり、そういう音世界になりました。それで、当時遊んでいた子供達にとっては、普段聞き慣れない不思議な感じがしたのかもしれないですね。それからインターネットが発達したことで、日本だけじゃなくて海外も含めた様々な人々が『MOTHER』の音楽が好きだったと発言してくれたり、「初めて接した音楽がゲーム音楽だった」と言ってくれたりしましたが、そういう話は、開発から何十年も経ってから分かったことでした。作っている本人たちは、当時まったく意識していなかったんですよ。

——以前フライング・ロータスの取材をさせてもらったときにも、彼が「『MOTHER』の音楽に影響を受けている」と熱く語ってくれたのを覚えています。

ああ、それはメチャメチャ嬉しいです。逆に今は、僕が彼が作る音楽に刺激を受けていますからね。世代を超えて時代の流れが感じられて面白いです。

——また、後にチップチューンが盛り上がるきっかけになったと思うのですが、田中さんが開発されたゲームボーイは、音が出る場所を「右」「左」「中央」に振り分けた疑似ステレオ仕様になっていることが特徴でした。これはどんな風に考えたものだったのでしょう?

ゲームボーイはファミコンの次で、その音源部分は自分独りで担当しました。ファミコンの時よりも音に割り当てられた回路の面積が小さかったり、予算が限られてたこともあり、音源の質的にはファミコンより劣ることは見えてました。 けれど、ファミコンよりも音が悪く感じられるのは嫌だった。それを補うために考えた工夫です。あと、ゲームボーイにはヘッドフォン端子がついていて、ヘッドフォンで音を聴きながらゲームができるという触れ込みだったので擬似ステレオ効果は面白いかな、と思い、そういう仕様を採用しました。

そこで、普通のステレオのように自由に音を振ることはできないにしても、「右」「左」「真ん中」に音を分けることで、ステレオの効果を出そうと考えたんです。あと、ファミコンの音楽プログラムは、画面を書き換える16ms毎に呼び出されることが常で、16msより短い音を出すことはあまりありませんでした。そこで、16msより短い音を出す仕様も盛り込みました。これは音楽で言うところのグリッチ音とかクリック音と呼ばれる音です。

あと、大した容量のものではないんですが、自由に自分で波形を書けるRAMも準備したし、ノイズについても、ファミコンの時にはないランダム要素の少ないノイズを追加し、質の違うものを2種類用意しました。この4つは、意識的にファミコンとは違う音の仕様として入れたものです。

——今考えると、そこでの工夫が後のエレクトロニック・ミュージックやチップチューンの発展に繋がった部分は、とても大きかったんじゃないかと想像します。

僕自身も、2000年代にジャスティスが所属している〈エド・バンガー・レコーズ〉を筆頭にしたエレクトロが出てきたときに、それをすごく感じました。僕も元々ああいうある種雑で大味な音楽は好きだったし、「ゲームボーイの音色と親和性の高い音楽だな」と思っていて。ああいう音は日本の商業音楽ではただ「チープな音」だ、とかハイファイではない音だと思われてなかなか使われないですが、海外の人達はゲーム音そのものが持つ個性みたいなものを素直に面白いと感じていたのではないか?と思ったりもします。あと、よりリアルな生音を追求しつづけてきたサンプラー音源がある意味、飽和状態に至り、その反動でゲームボーイが持ってたような雑な音が世界的にも受け入れられていった、そういう流れがあったとも感じます。けれど、すごく嬉しいことでした。

——そして07年頃になると、田中さんはライブの現場でChip Tanakaという名義を使いはじめます。これには何かきっかけがあったんでしょうか?

元々、任天堂時代の僕のペンネームが「Hip Tanaka」でして、知り合いのアメリカ人に「今こんな(=チップチューンをライブ演奏する)ことをやっているよ」と伝えたら、「じゃあ、Chip Tanakaでいいんじゃない?アメリカ人からするとクールだよ」と話してもらったのがきっかけです。当時自分のことを面白がってくれる人達は、自分のファミコン時代の本当にピコピコした音楽に興味を持ってくれることが多かったこともあって、最初はそこに自分から合わせていったような感覚もありました(笑)。

あと、自分が手掛けていたゲーム音楽をリミックスして、そういう音楽をクラブやライブの現場でも聴けるものにしたいという気持ちもありましたね。ずっと音楽に接してきて思うのですが、20代、30代の時に作った音楽って本人の意志とは関係なく聴こえない音がある、というか不思議なエネルギーが含まれている。だとするなら、それを今の音と合わせることで、これまでの経験も踏まえたものになると思ったんです。新しい音楽にも昔の音楽にも影響を受けて音楽を作っている感覚ですね。

——新しく出会う音楽と、自分がこれまで積み重ねてきたものを合わせたものが、今の田中さんの音楽になっているんですね。だからこそ最新の音楽も積極的に聴いていく、と。

はい。僕は自分が好きではない音楽も聴くというのが主義で、自分が分からないものであっても、「その音楽が何に影響されて出来たものなのか」を知るのが好きなんです。これは音楽だけじゃなくて、小説や絵もそうですけど、歴史ってとても重要だと思っていて。それが誰かの中に入ったときに、その人の中でシャッフルされてアウトプットされる。音楽を聞いて、「音色はなぜこうした?」とか「リズムは何に影響されてる」とか思いながら聴くのが好きなんです。アカデミックに考えるのではなく、直感で、ですけどもね(笑)。

家ではアフリカの音楽のようなものも聴くし、映像でEDMのライブを観たりもするし、テクノのロングセットを聴いたりもするし、フォークも聴きます。あと、今よく聴いているのはベックの最新作ですね。グレッグ・カースティンがプロデューサーとして参加していますけど、僕はもともと彼のユニット、バード・アンド・ザ・ビーも好きで聴いていて、まさかあんなに売れっ子になるとは思わなかった(笑)。

最初は相方のイラナ・ジョージが、(リトル・フィートの)ローウェル・ジョージの娘さんだと知って聴きはじめたのがきっかけでした。あの作品を今の若い人たちが広く聴いているかどうかは分からないですけど、僕らのように70年代から色々な音楽を聴いてきた人間に響くのは間違いないと思いました。

ベック 「Up All Night」 ミュージック・ビデオ