益子「あ、楽しんでる!」と思うと、もうちょっと楽しませたくなってくる。
——そうだったんですね! 先ほど、初期は踊らせるということもそんなに考えていなかったという発言がありましたが、踊らせることへの欲望というか意識のようなものは、いつ頃からどのように芽生えてきたのでしょうか?
益子 ライブをやっていくうちに。チルアウト・ルームとはいえ、ノンビートのアンビエントをやっているわけじゃないから、ちょっとビートに反応して踊る人がいるんですね。それを見て、「あ、楽しんでる!」と思うと、もうちょっと楽しませたくなってくる。そうすることで、僕たちも楽しいし。そうやって現場で曲がどんどん変化というか、進化していくんです。
中西 ツアーでオランダに行ったのも大きかった。
益子 そうだね。当時、僕らをよくパーティに呼んでくれていたYAKというDJがいて。彼が「アムステルダムのエレクトロニック・ミュージック・シーンにコネクションがあるから、一緒に行ってみない?」って誘ってくれて。で、ライブのブッキングを一個だけ入れて、後は行けば何とかなるでしょって。僕らも若かったので、「まあ、なんとかなるか」みたいな感じで(笑)。結局、3回やったのかな。その時に現地で出会った連中が港の近くにある大きな倉庫をスクワットして使っていたんです。フリーズハウスっていう、たぶん巨大な冷蔵庫みたいな場所なんですよね。スケボーをやれるところがあったり、一番上のフロアを自分たちの美術館みたいにして使っていて。言ったら不法占拠なんだけど、場所の運営や管理は非常にきっちりやっているんだよね。
山本 全部自分たちでDIYでやっているんだよね。その中にライブができる、クラブみたいな場所もあって、それなりに有名なアクトが来てやったりしているんですよ。そうした運営的なことも自分たちでやっているんだよね。
益子 そのフリーズハウスはワンフロアしかなくて、つまりメイン・フロアのみなんです。僕たちはチルアウト・スペースではやったことがあったけど、メインのフロアでライブするのはそれがはじめてだったんです。
中西 日本から来たアクトだし、珍しそうに見てくれていたんだけど、ライブが終わった後に、急にお客さんの女の子に呼ばれて、「まあ、だいたいは良かったんだけどさ、なんであんなにブレイクが長いの?」って真剣に詰められて(笑)。
益子 実は演奏している最中にも話しかけられていて、「もっと速い曲ないの?」って(笑)。
中西 そういう経験もあり、ちょっとこれは踊らせたいなって思うようになってきて。もし次にこういう場でやることがあったら、そういう曲も用意しておかなくてはいけないなって思いましたね。じゃないとお客さんが可哀想だなって。
——そうした経験やお客さんのリアクションがDUB SQUADのサウンドを進化させていくんですね。実際にセカンド・アルバムの『Enemy? or Friend!?』は、『Dub In Ambient』に比べると、明らかにダンサブルになります。
中西 その場が踊ることを求めているなら、それに応えたいなって思いますからね。もちろん自分たちの音楽性やエゴも大事だけど、それ以上に場を大事にしたかったという感じですね。だから曲順も決めない。場の雰囲気を見ながら、決めるというか。もちろんだいたいのセットリストは考えていくんだけど、場の空気を見ながら、直前でセットリストを変えたりもしていた。でもそこは非常に難しいところで、音楽としてちゃんと完成度の高いパフォーマンスを見せたいという気持ちもあるし、その場の空気に合わせて、リアルタイムで変化をつけながらのパフォーマンスもしたいとも思う。ふたつの気持ちのせめぎあいというか。それはいまでも変わらないですね。
益子 本当にそうだね。また『Enemy? or Friend!?』を発表する頃は、自分たちを取り巻く環境も少し変わってきて。それまではチルアウト・スペースが多かったけど、『Enemy? or Friend!?』をリリースする頃は国内でもメイン・フロアでライブをすることが増えてきた時期でもある。1990年代の半ばくらいから、大きくはないけれど、野外のレイヴやトランス系のパーティがチラホラと増えて、これまでにはなかった新しい場ができていくんです。
——メインのフロアに呼ばれるようになり、特に野外レイヴなどではかなり多くのオーディエンスを相手にすることになったと思いますが、そうしたことはサウンドやパフォーマンスにどのような影響を与えましたか?
益子 人数は実はあまり関係なくて、むしろメイン・フロアはお客さんも踊りたくて来てくれているので、やりやすいとも言えるんですよね。間違ったものを提供しなければ、大丈夫だろうっていう意識でやっていたと思います。それよりも前のアクトの作った雰囲気やテンションの中で、自分たちがどの曲をやったら、いちばん効果的かというようなことに意識を置いていました。
——時代的には1990年代の半ばから後半くらいの時期ですね。
益子 そうですね。本当に楽しい時代でしたよ。
山本 いろいろむちゃくちゃな時代だったよね。<METAMORPHOSE>の初回とか、本当にヤバかったですよ。全然仕切れていなくて(笑)。現地に到着して、なんか全然はじまりそうな気配がしないんですよ。で、出演するはずのフロアに行ってみたら、まずスタッフが誰もいなくて。その辺にスピーカーがごろんと転がっていて、設営もまだはじまっていない感じで(笑)。
益子 本当にここでセッティングするのかなって思いながら待っていても、いっこうに誰も来ない(笑)。まあでもここでやるんだろうなって思っていたら、<RAINBOW 2000>のスタッフをやっていた知り合いのウッシーが急に表れて、益子さんたち大変そうだから手伝いますよって仕切ってくれて、それでなんとかなったんだよね。ウッシーがいなかったらたぶんあの場はできていなかったと思う(笑)。あとから聞いたら、(オーガナイザーの)MAYURIさんがそもそもバンドのセッティングとかに慣れていなくて、「舞監(舞台監督)とか別にいらなくない?」みたいな感じで雇っていなかったみたい(笑)。
——だはははは。
益子 さすがにそれはヤバいと思っていた同じくオーガナイザーのコーヘイさんが、ウッシーを連れてきていたらしいの。で、現場の状況を見れば、さすがにウッシーは手伝わないわけにはいかないっていう。
山本 そして早朝に近隣から苦情がきて終わるっていう(笑)。まさに伝説の1回目なんだよね。でも<METAMORPHOSE>は毎回進化していくんですよね。それを体験するのも楽しかったな。
益子 そういうところもすべてひっくるめて本当に楽しかった。何が起こるのか全然予想ができないでしょ。
山本 <TAICO CLUB>の初回に個人的に遊びに行ったときに、なんてちゃんとしてるんだって感動しましたもん。初回なのにこんなにちゃんとしてるのか!って(笑)
益子 あと<METAMORPHOSE>はなぜかお盆の時にやっていたから必ず渋滞に巻き込まれる。それを見越して早めに出るんだけど、いつもそれ以上の渋滞にはまってしまうんだよね。だからお客さんも全然間に合ってなくて、つまり誰も間にあってないっていう(笑)。そういう体験すべてが面白かった。クラブ・シーンのオーガナイザーから発生した野外フェスという意味では、<METAMORPHOSE>は新しかったんじゃないかな。僕ら自身が心から楽しんでいたし、<METAMORPHOSE>はお客さんからも出演者からも愛されていたよね。