––––そのころのライヴハウスの状況はどんなものだったんですか。
大野 あんまりライヴハウスではやらなかったかも。
日暮 今みたいにライヴハウスがいろいろ選べる時代じゃなかったから、出られるようなライヴハウスが少なかったんだよね、雰囲気が違ってて。
––––ちょうどバンド・ブームが終わって、ライヴハウスも閑散としてたころですね。バンドもあまり元気がなくて。
日暮 そうそう。シーガルの場合、誘われるのはパワー・ポップとかガレージ・バンドのイベントばっかりで。スリッツ(下北沢にあったクラブ)が唯一の逃げ場所だった。DJやヒップホップのアーティストと絡めるから一番面白かった。
大野 そうそう。スリッツが唯一居心地がよくて。
日暮 踊りたい人は踊って、飲みたい人は飲んで。ライヴハウスみたいに一個のバンド目当てにワーッとくる感じじゃなくて。
大野 うんうん。自由な雰囲気だったよね。
日暮 音楽好きがふらーっと気軽に立ち寄れる場所だった。自分の企画を初めてやらせてもらったりね。
––––シーガルもバッファローも、そういう場所で育てられた。
日暮 いろんなジャンルの人たちと知り合って、いっぱいいろんな道が開けた。そういう経験をさせてもらいましたね。
大野 自分たちの居場所はライヴハウスじゃないというのは最初からあった。やったところでお客さんもいないし。もともとMC1000(新宿歌舞伎町にあったクラブ)から始めたからね。そういうところで繋がっていって、〈Cardinal〉のバンドとスリッツとかで一緒にイベントに出たりして広がっていった感じかな。そうするうちお客さんに外人が増えてきて。英語で歌ってたこともあって、これは日本より外国に向けて発信した方が速いんじゃないかと思って、それでルシャス・ジャクソンが来た時に音源を渡したら、それが大きなきっかけになって、グランド・ロイヤル(ビースティ・ボーイズのレーベル)と契約までいったという。
日暮 私たちも日本でデビューするつもりは全然なかった。アメリカでツアーしたかったから。なので英語で作ってたしね。
大野 あのころ趣味の近い外タレさんがいっぱい来てたから、しょっちゅういろんなバンドの前座で出させてもらって、それで広まったというのはある。
日暮 そういう横の繋がりは凄いよね。
大野 うん。だからあの時のライヴハウスというのは、私たちには合わなかったと思う。カルチャー的にもね、ちょっと落ちてたんじゃないかな、あの時だけ。
––––バンド・ブームの後遺症で。
日暮 そうそう。
––––当時ライヴハウスで頑張ってたのが、HI-STANDARDとか、ああいうバンドですね。彼らがライヴハウスを再興させたという面もあると思います。
大野 そうそう。見に行ったことあるよ。友達が一緒に出るっていうから屋根裏に見に行ったら、すごいのよ。パンパンに(客が)入ってて、すごい盛り上がりで。私たちとは全然違うから、ああ私たち(の居場所)は日本じゃないんだと、ちょっと思った。ちょっとしたカルチャーショックだったね。
日暮 私はそういう劇的な経験はないけど、日本のカルチャーと自分たちはそぐわないと思ってたからね。アメリカやヨーロッパならもっと広いし、きっと私たちを受け入れてくれる場所があると思った。
大野 私たちはそれで海外に出ていって、すごい良かったと思ってるよ。
日暮 シーガルも何度も海外ツアーやったけど、なにもかもが楽しかった。もちろん大変な時もあったけど。
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