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代表の大山陽一氏にインタビュー。DJ IZOHやKIREEKのDJ HI-C、そしてDJ KENTAROなどの協力もあって復活したについて、今年のJAPAN FINALの見どころなどを含めて幅広く語ってもらった。

<DMC WORLD DJ CHAMPIONSHIPS>……いわば、DJ、ターンテーブリストたちの中で、世界で最もスキルフルで、かつクリエイティブなプレイヤーを決める年に一度の祭典。日本でも、世界への挑戦権と日本一の名誉を賭けた大会<DMC JAPAN DJ CHAMPIONSHIP 2016 FINAL supported by G-SHOCK>が8月27日(土)に渋谷WOMB LIVEでおこなわれる!

1996年、ここ日本で、ヒップホップを広めたとされる歴史的イベント<さんぴん CAMP>と<LB まつり>が今年は開催20周年目を祝い、復活を果たして話題を集めたが、そこからさらに遡った1990年にラップではなくDJで、いち早くヒップホップのイズムを喧伝してきたイベントがあった。それが<DMC JAPAN DJ CHAMPIONSHIPS>である。2002年にDJ KENTAROが、2012年にはDJ IZOHが、それぞれ日本の代表として<DMC WORLD DJ CHAMPIONSHIPS>で世界一に輝いたことで、日本にカルチャーとして根付いたヒップホップが、フレッシュでクリエイティブなものとして世界に十分通用するという事を、そのプレイをもってまざまざと見せつけてくれたが、さあ、今年の大会では一体どんなスターが生まれるのか。

今回Qeticでは、DMC JAPAN代表の大山陽一氏を招き、これまでの歴史や、今年からシングル部門に加え、バトル部門が復活した<JAPAN FINAL>の見どころを聞いた!

【インタビュー】DJ KENTARO、DJ IZOHら世界トップDJを輩出。DMC JAPAN代表が語る大会復活秘話 music160812_dmc_2015【インタビュー】DJ KENTARO、DJ IZOHら世界トップDJを輩出。DMC JAPAN代表が語る大会復活秘話 music160812_dmc_2015-1

2015年の会場

Interview:DMC JAPAN 代表 大山陽一

――では早速宜しくお願いします! 大山さんは2013年から<DMC JAPAN>を運営されていますが、<DMC>自体はイギリスで1985年からスタートした大会で、日本ではその5年後に大会が始まったんですよね。まずは運営に関わる前、大山さんが<DMC>を知ったキッカケを教えてください。

初めて<DMC>を知ったのは90年代に自分が高校生だったころ、所謂ジャパニーズ・ヒップホップのムーブメントの黎明期だったころですね。同時にDJブームの走りみたいなものが生まれて、ご多分に洩れずバイト代を貯めてDJ機材一式を揃えて宇田川町に通う日々を送っていました。そういった洗礼をどっぷりと浴びた流れで<DMC>という大会を知りました。大会の模様を収録したVHSが当時発売されていて、それを友達の家に集まって早送りと巻き戻しをガチャガチャと繰り返しながら、みんなで練習をしたというのが俺たちの世代では「あるある」です。自分がエントリーするってレベルではなかったんですが<DMC>は身近には感じていました。

――なるほど。実際に大会には行かれていたんですか?

当時HIP HOPにハマった人間で行ってない人はモグリですね(笑)。学校を卒業してからは、DJカルチャーを扱うプロダクションで働いていたんですが、その会社が<DMC JAPAN>の協力もしていてスポンサーを繋ぐ手伝いをしたりしていました。その時は20歳そこそこの小僧でしたが当時<DMC JAPAN>のボスだった尾崎さんと知り合ったのは大きかったし、いま自分が代表をやっていることを考えると不思議な縁を感じますね。

――そうなんですね。<DMC>があったことによってDJのテクニックやプレイもVHSなどで共有され、競い合うことによって、DJカルチャーが盛りあがっていったというのが当時の実感としてあったんでしょうか?

それはもの凄くあったはずです。今でこそYouTubeでルーティンをチェックすることができたり、「How To〜」みたいなDVDも沢山あるんですけど、当時は情報量が圧倒的に少なかった。そんな状況の中、大会に出場することで仲間ができて技の磨き合いができた最大の環境が<DMC>だったんです。

KIREEKのDJ HI-Cの話なんですが、彼は元々バリバリの暴走族だったんです。それこそ『チャンプロード』とかに出ちゃうような少し面倒な人間だったんですけど(笑)、あるときDJに憧れたみたいで。ただ、暴走族の仲間はいてもDJの知り合いはまるでいないと。それでも、とりあえずDJならばってことで<DMC JAPAN>にエントリーして。で、ターンテーブリストは通常ヘッドフォンを使わずアナログのレコードにマーキングテープを貼って上手に針を落としていくんですが、鼻息荒く会場に着いたのは良いんだけど、1人だけヘッドフォンを付けて出場したらしいんです(笑)。その場で無事に友達ができたと言ってましたが、それぐらい情報がなかった時代なので、みんなで集まってスキルを磨き合ったり情報を共有したりすることが重要だったんです。

【インタビュー】DJ KENTARO、DJ IZOHら世界トップDJを輩出。DMC JAPAN代表が語る大会復活秘話 music160812_dmc_hic

2014年シングル部門優勝:DJ HI-C

【インタビュー】DJ KENTARO、DJ IZOHら世界トップDJを輩出。DMC JAPAN代表が語る大会復活秘話 music160812_dmc_3

2014年の会場の様子

あとは<さんピン>以降のジャパニーズ・ヒップホップというムーブメントが広がるタイミングとリンクしていったってのも大きかったはず。ヒップホップの四大要素の中で、日本で一番最初に浸透していったのはDJだと思うんです。ラップは言葉の壁もあるし、グラフィティはトレインボムやウォールアートってのは日本だとハードルが高い。ブレイクダンスを始める子も割といたと思うんですけど、それよりもDJの方がシャイな日本の国民性にハマったんじゃないかな。それだけに当時<DMC JAPAN>が存在していたことはとても大きかった。今でこそあたり前になったDJと言う言葉が日本で一般に広く認知されているのは<DMC JAPAN>の功績の1つだと思います。

――僕も実際に調べてみて、90年にスタートしていたというのが結構意外でした。ドイツやフランスで<DMC>スタートしたのが89年だったので、1年しか変わらないんだな、と。

<DMC>って実は『Disco Mix Club』の略なんです。結構ダサい(笑)。自分も詳しくは知らないんですが日本のディスコブームもあって入ってきたんじゃないのかな。当時の<DMC JAPAN>は確か3年やった後に1年休止しているはずなんです。おそらくディスコブームの終焉と共に(笑)。その後、世界的にもDJのクリエイションが高まっていって、ヒップホップのムーブメントと共に<DMC>も自然とシフトしていったっていう流れがあるみたいです。こうした成り立ちからすると、本当にスピーディーにDJのスキルは変貌を遂げていったんだなと思います。ちなみにアメリカ発祥と思われがちですけど、もともとBBCのプロデューサーだった人間が「DJこそ明日の音楽の中枢を担う」というコンセプトのもとに立ち上げた団体なので、本部はイギリスなんです。

――確かにターンテーブリズムの発祥というか、元々は長く踊らせるためにブレイクを繋ぐ中で、実験性や即興性が育まれていったんだと思います。そういったものはおそらく事件的に現場で起こっていて、あまり記録や文献には残っていないんです。

基本的にはストリートのカルチャーですからね。作品として残っていくようなものでもなかったし。ただ、その後The X-EcutionersやScratch Pervertsなんかが出てきてアルバムをリリースしたりすると、プレイヤーが創る音楽にも注目が集まるようになって少しづつターンテーブリストにも光があたるようになっていきました。。

――そうですね。こうしたターンテーブリストたちのプレイは、技術がわからなくても視覚的に楽しめるパフォーマンスという側面もあると思います。ちなみに90年代前半の日本と世界との技術の差はどれぐらいあったんでしょうか?

生で世界を感じていた訳ではないんですがVHSで観ていた限り、当時は世界との差が相当あると感じていました。ただ、それをしっかり消化していったターンテーブリストたちが居たからこそ、今や日本は強豪国として名を連ねることができるようになったんだと思います。

次ページ: DJ KENTAROが世界の壁を打ち破る!

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Qetic編集部

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