三つ子の魂百まで、とはよく言ったもの。ミュージシャンであれば誰でも「浴びるように音楽を聴いて、海面のように吸い込んでいた」時期がきっとあり、そこで出会った音や姿勢に、良しも悪しも一生心震わされたりすることも。
トクマルシューゴもそんな音楽家のひとり。ザ・シー・アンド・ケイクとの対バンを前にして、稀代のマッドなマエストロが出会った90年代のオルタナティヴ/ポストロックへの思いと自身への影響をお届けしよう。
Shugo Tokumaru(トクマルシューゴ) – “Poker”(Official Music Video)
Interview:トクマルシューゴ
中高生が、いきなりバストロとかに行けないですよ(笑)。
――ポストロック、ポストロック以降の音楽に出会ったのっていつ頃?
トータスの『TNT』(98年)ですね。18歳、アメリカに行く(※1)直前だと思います。たぶんそのときにようやく、そういう類いの音楽が、専門誌以外の雑誌に載り始めたんですよね。だから僕らも見つけられた。トータスのセカンド『ミリオンズ・ナウ・リヴィング・ウィル・ネヴァー・ダイ』(96年)の頃は、まだ知らなかったですね。
Tortoise – “TNT”
※1:トクマルは18歳から2年、アメリカに留学している。
――中学校~高校生の頃は何を聴いていましたか?
パンクや、ザ・フーやキンクス、キングクリムゾン辺りを聴いていた頃です。僕らが中学校の頃は、カート・コバーンが亡くなって、オルタナがメジャーに出てきて、イギリスではブラーとオアシスが出てきた、という時期ですね。ウィーザー、レディオヘッド、ペイヴメントとか。どれも聴いてはいましたけど、特にペイヴメントは衝撃的でしたよ。子供のころからピアノをやっていたこともあって、巧くないと聴けないという感覚があったんだけれど、ペイヴメントは、何だコレ、カッコいい! って。
――ダメなものもカッコいいって感じられる感覚って、この時代の肝のような気がするのですが、なかなかケモノ道ですよね。
ギターを始めてから、いわゆる三大ギタリストとか巧いんだろうなと思ってコピーしていると、ライヴとか結構ミスタッチとかあって、それも面白いんですよね。逆にそれがギターのかっこよさじゃないかな、とか。それに惹かれていたりしたので、ペイヴメントにすんなり入れたのもあるのかも。
――子供の頃からの同級生でもあったゲラーズのメンバーとCDを貸しあって?
そうです。みんなで時代をさかのぼって60年代、70年代の音楽、プログレやジャズを追うのに忙しくて、同時代のディープな音楽にまでは追いつけなかったんです。だって……普通の中高生がいきなりバストロ(※2)とかいかないですよ(笑)。でも、吉祥寺のワルシャワには行ってましたよ。
bastro
※2:ジョン・マッケンタイア、デヴィッド・グラブス、バンディKブラウンからなるハードコア・バンド
――店長が小林秀樹(※3)さんだった頃?
行ってました、行ってました。ゲラーズのみんなと色んな音楽を一緒に探しては聴いてたんですよね。特に変わったものは川副で、センスのいいものは田代が見つけてきたり、僕はまんべんなくバラバラと。10代の頃は、ペイヴメントのようなローファイな音楽と、技術こそすべて、っていうテクニック至上主義なジャズやメタルの音楽との狭間にいたんで。楽器の技術を上げるのが楽しかったんですけれど、普段聴く分には下手なものも大好き、という感じでした。
※3:サム・オブ・アス等のレコード店やレーベルを運営した、インディ/ポストロックの最高の紹介者
――当時のワルシャワと言えば、ハードコアとかパンクはどうでした?
やっぱり刺激的でしたよね。でも、中学生には怖いじゃないですか(笑)。ワルシャワや(ディスク)ユニオンは怖かったですよ。当時はユニオンの奥まで行って、怖いTシャツとか怖いCDを買ってくるっていうこと自体が刺激的で。ハードコアとかジャンクなものって、ジャケからしてグロかったり怖いじゃないですか、黒と白で(笑)。ゲラーズの中では、ハードコアは大久保やゲラーズの元メンバーの奴がよく聴いていたんじゃないかな。
――ホントにゲラーズのメンバーしか友達いなかったんだ(笑)。
いなかったですよ。20代の中盤までそういう変な音楽友達は他に誰もいなかった(笑)。
GELLERS – “Cumparsita”