第140回 僕たちの視界

4年ぶりに見る外の景色にアカネはとても興奮している。こんなにはしゃいだ声を聞いたのは久しぶりだ。どうしてこんなにはしゃいでいるの? と近くにいるはずの妻に聞くと「シャボン玉が沢山飛んでるの」と教えてくれた。まだ幼かった頃、アカネはシャボン玉遊びが大好きだったもんな。きっと良い笑顔してるんだろう。僕には見ることが出来ないけど後悔はしていない。これで良いんだ。

4年前、アカネは家の階段から落ちて病院に運ばれた。幸い怪我は無かったものの「急激に視力が低下していたために階段から落ちたのかも知れない」と医師から告げられた。夫婦で忙しく働きに出ていた僕たちは、アカネの視力の異変に気づいてやれなかった。どうにか色を認識するくらいの視力で毎日を暮らしていたアカネを思うと胸が痛む。医師は「角膜を移植すれば治る可能性がある」と言う。僕たちは移植の機会を何年も待った。でも順番はなかなかまわって来ない。だから僕たちは決断した。角膜をアカネに贈ろうと。

目が見えなくなることに恐怖がないとは言えない。でもアカネに美しい世界を見て欲しいという気持ちには到底勝てなかった。若いときの君しか記憶に残らないなんて僕は幸せ者だよ、そう言うと妻は泣きながら何度も頷いてくれた。麻酔が打たれて僕は少し眠くなって来た。きっと意識が戻る頃には僕の視界は限りなくゼロになっている。その分アカネがどん欲に世界を見つめてくれるだろう。隣のベッドで眠るアカネの寝顔を見つめながら、そして妻の手を握りながら僕は静かに眠りについた。