【インタビュー】日本語であることの可能性。環ROYが『なぎ』に込めたラッパーの在り方とは? tamakiroy_4-700x467

“曖昧な”日本語でラップをするということ

——幼稚な歌詞って、そもそもなにをもって幼稚ということになるんでしょうね。

うーん……主観的にしか言えないですけど、構造が単純だと幼稚なんでしょうね。日本語における歌詞構造の複雑さって、余白の広さと意味の多様さが共存してる状態だと思うんです。さっきいった抽象化の話しと一緒で、余白が広いのに成立するためには、複雑なメカニズムで、強く言葉が結びついてないと成り立たない気がするんです。

——さきほどのiPhoneの話しのような。ボタンが一つだけの抽象的なインターフェイスなのに、中身が複雑だから成立してる。ってことと関係ありそうですね。

そうですそうです。で、なんで日本語のラップって、余白が狭かったり意味が一義的で、抽象度が低い表現なんだろうって考えると、和製漢語を無自覚に多用しちゃってるからだと思ったんです。

——和製漢語は明治期以降に多く作られた比較的新しい日本語のことですよね。

はい。二文字の熟語、たとえば、時間、空間、主観、客観、精神、みたいな、こういうのを和製漢語っていいます。明治期以降、それまでなかった言葉や概念が日本に入ってきたとき、その概念を翻訳しなくちゃいけないってことで、かわりになる漢字をあてて作ったらしくて。それって、あらかじめ機能が想定された言葉だなと思ったんです。もっというと、合理的で余白のない言葉。たとえば、「駅に移動」と「駅にいく」だと同じ意味ではあるけど、前者のほうが硬い印象で、とにかく駅まで事務的に一直線で向かうんだなって感じがしますよね。でも後者だと、駅までの途中で、コーヒー買ったり、犬とすれ違ったりするかもしれない。

——たしかに、前者は意味の輪郭がはっきりしていますね。論文などに使われる印象です。曖昧さを排除して的確に伝えられる利便性があります。

はい。あと、高文脈言語と低文脈言語というのがありまして……日本語って高文脈言語らしいんです。どういうことかというと、言葉で伝えたことよりも、言葉にしていない部分の情報が豊かで、その領域で伝え合う言語なんだそうです。低文脈言語っていうのはそれの逆で、ドイツ語がもっとも低文脈らしいんですけど。例えば、取引先の会社に電話をかけたとして、「佐藤さんいますか?」って聞くとするじゃないですか? 僕らだったら「佐藤いますよ、代わりますね。」ってなるじゃないですか。でも低文脈言語の世界では「はい、佐藤いますよ。」としか答えてくれない。最初から「佐藤さんがいたら代わってください。」って言わないと代わってもらえない。英語も低文脈言語らしいです。どっちの言語が優れてるとかじゃなくて、言語の特性の話なんですよね、地域とか宗教が関係してると思うんですけど。

——それと、先程の和製漢語の話しがつながる?

はい。和製漢語って、日本語という高文脈言語の中にある低文脈な言葉だと思うんです。日本語は、言葉にした領域以外にもたくさんの情報があって、曖昧な表現を共有し合う特性があるのに、和製漢語はそういった特性とは逆の機能を目的として作られている。ヨーロッパからきた概念を翻訳して曖昧さを排除しようとしたからだと思うんです。そういう視点で考えると和製漢語は、僕が思う広い余白や、多層的な意味を持った歌詞表現にはむかないと思ったんです。

——でも和製漢語が無自覚に多用されているっていってましたよね?

そうですね、多用されてきたと思います。単純にライミングしやすくて便利だったからだと思います。例えば「写真を現像するために写真店へ移動、仕上がりを検証、想像を超えて成功、それを入稿。」って感じで、簡単にライムになる。論文なら言いたいことがしっかり伝わるからいいんですけど、歌詞として考えたら意味が限定されていく感じがしませんか?稚拙というか、高文脈言語の特性を活用できてない感じがするんです。