深夜のハルシー・ストリート駅周辺は、ガソリンスタンドとダンキンドーナッツのネオンだけが目立つ閑静な住宅街だ。クイーンズ区とブルックリン区のボーダーライン沿いに位置するリッジウッドと呼ばれるこの町は、一昔前は治安も悪かったそうだが、ブルックリンの家賃高騰化によって最近では若者達が多く移り住んでいると言う。地図上はぎりぎりクイーンズ区でありながら、ブルックリン的な若者が多く生活するこの町の事を『ニューヨーク・タイムズ』紙は皮肉交じりに「クークリン」と称した事もあった。そんなリッジウッドに若者達が集まる理由の一つにライブハウス「トランス・ペコス」の存在は大きいと言えるだろう。

そして、今や世界的な活躍を見せるローレル・ヘイロー(29)がライブをするとなれば、ニューヨーク中から多くの若者達が集まる。この日、彼女が久しぶりにニューヨークで行なったコンサートはソールドアウト。彼女のプレイを一目見ようと集まった人々で閑静な住宅街にあるライブハウスは熱気に包まれた。いったい彼女の頭の中はどうなっているのだろう?そんな疑問さえ湧いてくる独特の世界観にオーディエンスは酔いしれた。今回のコラムでは宅録女子として騒がれてわずか数年でトップアーティストの仲間入りを果たしたローレル・ヘイローの魅力に迫る。

宅録女子からの卒業!新作を発表したローレル・ヘイローに迫る! column151201_usa_2

芸術と共に育った幼少期

1986年、ミシガン州アナーバーでローレル・ヘイローはアイナ・キューブの名で生を受けた。デトロイトから車で50分程離れた郊外に位置するこの町は、GMやフォードなどの自動車産業に関連する雇用者が多く住んでおり、ヘイローの両親もまた自動車産業で働く労働者だった。しかし、ヘイローにとって幸運だったのは、彼女の家系が芸術への理解が深かったという事だ。祖母はオペラ歌手で、第二次世界大戦時には兵士達の前で歌い、親戚にはギタリストやシンガーもいた。そしてヘイローの父親もまた、フルタイムで働く傍ら、画家としての活動を勢力的にこなすアーティストだった。こうした環境の中でヘイローは幼い頃からアートへの興味を自然と持ち始め、ピアノ、ヴァイオリン、ギターを習い、ミュージックスクールでクラシックを学び、オーケストラにも所属する少女時代を過ごした

テクノとの出会い

しかし、幼い頃からクラシック音楽に触れてきたヘイローだったが、本当の意味で音楽の楽しさを知ったのは大学時代に学生同士で行っていたラジオでDJを務めた時だと言う。リスナーの為にあらゆるジャンルの音楽を選曲する中、ヘイローもまた様々なジャンルの音楽を聴くようになり、その世界観が広がっていったのだ。そして地元のライブハウスに通うようになると、多種多様なジャンルのアーティストが同じライブハウスで演奏をする“地元の小さなシーン”に触れ、ヘイローもまたバンド活動に没頭するようになり、19歳の頃から作曲活動を開始した。そしてヘイローはこの頃、後の人生を大きく変えるある出会いをした。それは、地元ミシガン州で開催された<デトロイト・エレクトロニック・ミュージック・フェスティバル>に友人達と訪れた時の事だった。これまでエレクトロニック・ミュージックに触れて来なかったというヘイローはこのフェスに参加した際に、その魅力に強く惹かれたという。以来、ヘイローはデトロイト・テクノに夢中になり、地元ミシガン州の音楽を深く追求し始めたという。

ローレル・ヘイロー誕生

2009年、地元でのバンド活動で理想の音楽を制作することに限界を感じていたヘイローはニューヨーク・ブルックリンに活動の場を移した。ヘイローは少しずつ機材を揃えながら自宅での音楽制作を開始。また、この頃から現在のアーティスト名であるローレル・ヘイローを名乗り始めた。名前の由来は、ビデオゲームのタイトルからだという。自身は滅多にビデオゲームをするわけではないそうだが、ゲームに使用される音楽が好きだったという理由からだ。

ブルックリンに活動の拠点を移したヘイローは自宅に籠もり、楽曲制作に没頭した。すると、ヘイローはこれまでの作曲活動では感じる事のなかった、“自分自身が納得の行く作品”を初めて作る事ができたという。そしてヘイローは楽曲をまとめたEPを『King Felix』と名付け、ネット上にアップした。するとたちまちヘイローの楽曲は話題となり、3カ月間で3000ダウンロード記録するまでになった。そしてヘイローは、この時初めて自分の進むべき道が見えたのだという。

宅録女子と騒がれて

2012年、満を持して発表されたローレル・ヘイローのファーストアルバム『クァランティン』はいきなり、英「WIRE」誌のアルバム・オブ・ザ・イヤーを獲得。実験的な要素を含み、複雑だが美しく、ドラマティックな楽曲の数々は10年代のエレクトロニク・ミュージックを語る上では避けることのできない傑作となった。また、アルバムのアートワークには日本の現代美術家、会田誠の『切腹女子高生』を使用したことでも話題となった。そして「クァランティン」発表後、世界的な評価を受けたヘイローは活動の拠点をブルックリンからベルリンへと変えた。ヨーロッパを中心としたツアーで大忙しのヘイローは、生活のリズムが安定する地としてベルリンを選んだのだという。そしてヘイローはベルリンの音楽シーンの中で新たな活動を開始したのだ。

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『クァランティン』

Laurel Halo Expands Light and Space

翌年、ヘイローは休む間もなくセカンドアルバム『チャンス・オブ・レイン』を発表。ヘイロー自身が「アンビエント/アブストラクト・テクノ・レコード」と 呼ぶように、前作で見せた自身のヴォーカルを排除し、スタジオで一から制作した前作とは対照的に、ライブ用に作ったシークエンスから、トラックを構築し楽曲を制作していったのだという。しかし、楽曲へのアプローチの仕方は違えど、ヘイローにしか出せない独特の世界観は引き継がれており、さらなる進化を遂げた傑作となった。そして、本作のアートワークは長らくスタジオに飾ってあったという画家である父親からもらった絵を使用している。1969年、父親が17歳の時に描いたというこの絵をヘイローは数年前に譲り受けたのだという。ヘイローはカラフルな楽曲と対照的にモノクロで殺伐とした印象を与えるアートワークのコントラストが気に入っているのだという。

Laurel Halo – Chance Of Rain

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