第193回 対岸までの距離

僕の家の前には川が流れていた。近くに橋はなく、向こう岸に行くことなんて滅多にない。だから向こう岸にどんな人たちが住んでいるのかも知らない。でも一人だけ友達がいる。名前はロック。僕と同じくらいの年齢で、いつも川沿いにぽつんと置かれた椅子に座っていた。まだ会ったことも、話したこともないけど、僕たちは川を挟んだまま友達になった。

僕らの会話はボーイスカウトで習った手旗信号。何気なく「ハロー」って伝えたら「僕の名前はロックだ」と返してきたのが始まりだった。彼はいつも椅子に座って川を眺めていて、対岸の僕を見つけると嬉しそうに信号を送ってきた。「今日の学校はどうだった?」「昨日の歌番組見た?」そんな他愛もない会話を、僕たちは暗くなってお互いの信号が見えなくなるまで続けた。

川岸での会話は数年間、僕が高校を卒業するまでほぼ毎日続いた。どんなにクラスメイトにいじめられても卒業できたのはロックがいつも励ましてくれたからだ。僕はどうしても直接ロックにお礼が言いたくて、卒業式の後に初めて向こう岸に渡った。

いくら探しても彼はいなかった。いつも座っていた椅子は見つかったけどロックはどこにもいない。この時間にはいつも話していたのに。僕は不思議な気持ちで川沿いに立つ。向こう岸に僕の家がよく見える。そうか。きっと僕の中にロックが戻ってきたんだ。僕は過去の自分に手旗信号を送った。「君はもう大丈夫」と。

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photo by normaratani