第133回 まな板の恋

割烹料理屋だから目印になるだろう、そんな軽い気持ちで俺の家を待ち合わせ場所にしたのが大きな間違いだった。大学生活で初めて出来た彼女との3回目のデート。何時間洋服を選んだと思ってんだ。何日前からデートコースを考えたと思ってんだ。ノリの良い彼女も流石に戸惑ってる。まさか急いで魚を釣る羽目になるとは。

彼女を待っていると、親父が青い顔をして店から飛び出してきた。「タケシ、マズイことになった。冷蔵庫がいつの間にか壊れてて今朝仕入れた魚が全部駄目になっちまった。急いで何か釣って来てくれ。今日だけは断れない予約が入ってるんだよ、ああ、彼女さん、初めまして。丁度良い時に来てくれた、実は、、」親父のあまりの勢いに彼女も俺も無下に断れず、30分後には2人で釣糸を海に垂らしていた。

「あたし魚釣りなんて初めて。なんか凄い」と彼女は明るく振る舞う。俺は何度も謝りつつ、早く終わらせなきゃと真剣にやってみても全然釣れない。そもそも急いで魚を釣ること自体が無理だ。新調した洋服に潮風が哀しく吹きつける。彼女もお洒落して来たはずなのに。「あたし魚釣り好きかも。少し人間から離れる感覚ある」そんなことを言う彼女に、わかるようでわかんないや、と俺はつまらなく答えてしまった。その数秒後、彼女の竿に何か魚がかかった。俺は自分の竿を放り、彼女の後ろから両手を握った。魚は海を全力で逃げまわる。なかなか大きい。俺の腕の中で彼女は大騒ぎしている。こんなに楽しそうに笑ってる彼女も初めてだし、彼女の手をこんなに強く握ったのも初めてだ。かかった魚に観念して欲しいような、もう少し頑張って逃げまわって欲しいような、そんな気分だ。

photo by normaratani