第149回 ハッピーバースデー

私は壊れてもいない靴の修理のためにここに座っている。どうしても会社に戻りたくなくて。昔、実家がカバン屋だったから革のニオイを嗅ぐと少し落ち着くのだ。職人さんの黙々とした作業を見ながらいくつもの言い訳を考え始める。何のため、誰のための言い訳なのか自分でもわからないまま。

「今日は僕の誕生日なんですよ」隣に座っていた男が急に呟いた。周りには私以外に人がいない。でも私は返事をしなかった。見ず知らずの男と会話する気分じゃない。男は構わず続けた。「いつのまにか靴底が取れてたんです。玄関出た時から足音が妙に軽やかだったから「やっぱり誕生日は違うなあ」なんて思ってたんですけどね。笑っちゃいますよね」そう言われてなんとなく男の足を見ると、私とお揃いの花柄のスリッパを履いている。私はこのシュールな状況に、つい笑ってしまった。

彼女は1週間に1度くらいのペースで来店していた。靴の修理屋にそんなにちょくちょく来る人はまずいない。依頼はいつもちょっとした汚れ取り。そして憂いのある視線で僕を見つめている。僕は次第に彼女のことが気になり始めた。そんな彼女が今日は笑っている。思った通り。彼女の笑顔はとても素敵だった。今日が誕生日だという男が帰った後も彼女は微笑んだまま。今日こそは彼女を食事に誘える気がする。僕は彼女の靴をいつも以上に丁寧に仕上げ、思いきり深呼吸をした。

photo by normaratani