第58回 ヒグマの選択

「こんな生活がしたかったんだ。本当に助かったよ。作物をあさる事もしなくていいし、冬眠の準備もいらない。ここは本当に落ち着くよ」ヒグマは2重の鉄格子の奥から僕に話しかけて来た。顔だけ白いヒグマとして動物園でも人気者の彼は、すっかりここでの暮らしに満足しているようだ。

3年前、ある集落に突然現れた彼は、半日逃げ回ったあげく、3発目の麻酔銃によって捕獲された。そこで僕が獣医としてこのヒグマを観察し、彼の未来を決定する事になったのだ。僕は動物の言葉がわかる獣医として全国で色んな動物の判断を任されて来た。狂犬病かもしれない犬や、競馬で足を折ってしまった馬、海岸に打ち上げられたクジラなどと直接話し合い、どうにか解決出来るのか、最悪の場合安楽死なのかを決定しなければならない。「死」に対して恐怖心を抱くのは人間と一緒だから、彼らに「死」を説明をする時がやはり一番つらい瞬間だ。涙こそ流さないが、彼らも深く悲しみ、大声で泣き続ける。

麻酔から覚めたヒグマは自分の状況を理解し、言葉がわかる人間がいる事をすごく喜んだ。彼の話によると、首から上の毛が白かったためにすぐに母親から捨てられて、小さい頃から一人きりで生きてきたそうだ。「隠れて暮らすのに疲れ切ったから山から降りて来たんだ、ヒグマの生き方は僕には向いていない。傷つけられたくないし、誰も傷つけたくない。狭い場所でもいいから安心して暮らしたいんだ」もらった餌を美味しそうに食べながらそう話す彼を、また野生に帰すのはきっと困難だろう。動物園行きはみんな嫌がるし死ぬまで檻から出れないよ、と話しても彼は頑として動物園を選んだ。

僕はヒグマの動物園行きを担当者に伝えた。この決定に担当者は驚いた様子だったが、彼は優しすぎてヒグマとして生きられないんです、と説明すると少し納得してくれた。僕は気が滅入るから動物園には行かないんだけど、いつか彼には会いに行きたいと思っている。狭い檻の中で人から餌をもらい、毎日ぐうたらに過ごす彼を想像する。長い間孤独に苦しんだ彼にとっては、そんな暮らしも幸せなのかもしれない。