第88回 母とのランチ

「部長がデスクで弁当食べてるとランチに行きづらいんです」と部下に言われた。確かに普段から私は弁当を食べることが多い。出張の時も移動中には必ず弁当を買うし、仕事帰りにも安くなった弁当を買って帰る。とは言っても、各地を食べ歩く弁当マニアというわけではなく、ただただ一般的な弁当が好きなのだ。理由はとても簡単だ。私は母が作っていた弁当屋のおかずが小さい頃から大好きだったから。

父親が若い女と出て行った後、母は弁当屋で働き始めた。それまで料理が得意ではなかった母は、毎日のように手に怪我や火傷をして帰って来た。絆創膏だらけになっていく手のひらが痛々しい。でも食卓は日に日に豪華になっていった。売れ残った弁当のおかずが何種類も並び、私は「すごく美味しいね」と言いながら残さず食べた。誰にも恥ずかしくない弁当を幼稚園に持って行けるのも嬉しかった。愛嬌のあった母は仕事をどんどん任され、私が高校生になる頃には店長になっていた。

ある日の部活の帰り、たまたま弁当屋に寄ってみると、母はカウンターの目の前ですっかり寝てしまっていた。店内には母1人。きっと忙しくて疲れたんだろう。何度か声をかけても起きない。さすがにお客さんが来たらまずいと思った私は、裏口から店内に入り母を起こそうとした。強くさすってもなかなか起きない。怖くなった僕はすぐに救急車を呼んだ。医者の診断は脳梗塞。長年の過労が母を壊してしまったのだ。

あの日から数十年経った今でも、まだ私は母の手料理を食べていない。でもあまり寂しく思わないのは、よく弁当を食べているからだろう。「あなたのために作った料理じゃないのに」と思うかもしれない。でも当時私は、自分の母親の料理をみんなが美味しく食べているのだと思っていた。母子家庭の私にはそれはとても誇らしいことで、自慢の母だった。しかし私はその気持ちを伝えただろうか。今度の週末、久しぶりに母に会いに行こう。なんてことない弁当を持って。