第45回 夢で会えたら

「ここ一週間、毎日何時間もお経を唱えてる婆さんがいる」と仲間達が話してるのを聞き、早速見に行った。観光客が多いこの寺でそこまで熱心にお経を唱える人は珍しい。僕は半分暇つぶしのつもりで入り口近くの参拝所に行ってみると、噂の婆さんはすぐに見つかった。彼女の顔を見た瞬間、僕の冷たい心臓が止まる。彼女は僕の母親だった。

8年振りに見た母親は酷く老けていた。白髪だらけになり、肌は浅黒く、表情はやつれていた。僕が突然失踪してしまった事が原因なのは一目瞭然だった。彼女の人生を大きく狂わせてしまった事に改めて後悔する。あの姿からは、全国の大きい寺を転々と巡り、息子が無事に帰ってくるよう祈り続けていることがうかがえる。それを知っても僕はどうしたらいいか分からなかったし、実際どうする事も出来ない。

せめて声を聞きたいと思い、彼女のすぐ後ろに立った。久しぶりに聞く母親の声は小さくかすれている。彼女は目を閉じたまま、必死にお経を唱える。僕は静かに彼女の肩に触れた。もし今、彼女が目を開いても既にこの世にいない僕の事を見ることは出来ないが、きっと何かを感じてくれるはずだ。境内を見上げると住職がこちらを見て微笑んでいる。僕は母親を抱きしめながら住職に別れを告げた。彼女のお経と共に体が次第に暖かく、そして軽くなっていく。ここで一緒に暮らした仲間達に見送られながら僕は空に浮かび、そして消えてなくなった。満面の笑顔のままで。