第85回 もう2度と

俺は借金がふくれあがった人達を作業現場に送り届ける仕事をしている。普通の人間なら大金を積まれたってやらないような仕事を、彼らは短くても半年は続けなくてはならない。大抵はギャンブルに狂って自ら身を滅ぼした奴らばかりだから俺は全く同情しない。突然部屋に迎えに行って、最低限度の荷物だけ持たせて連れ出す。泣き出す家族がいようが、まともに歩けない年寄りだろうが関係ない。俺は誰かがやらなきゃいけない仕事をしているだけだ。

早朝、ボロボロのアパートに男を迎えに行くと玄関の鍵が開いていた。中に入るともぬけの殻。家具が一つもない。逃げられたと思ったが、一応部屋の中を確認してみると、
奥の部屋で男がイビキをかいて大の字になって寝ていた。横には一升瓶が転がっている。呑気なもんだな、俺は男をたたき起こそうとして気がついた。この男の顔に見覚えがある。忘れる訳が無い。20年前に失踪した父親だからだ。

「まさかアキラか、驚いたな」父親の声は酒のせいでガラガラになっていた。20年振りの再会にも関わらず、俺は嬉しくも悲しくもなかった。2度と会わなくてもなんとも思わない。でも1つだけこの男にやらせることがある。母親への謝罪だ。夫婦の関係がどうだったかなんて知らないが、母親は何年もこの男の帰りを待っていた。神輿を担ぐのが好きだったこの男を思い出すんだろう、近所で祭りがある度に寂しそうにしていた母親を俺は忘れられない。

俺は父親を近くの公衆電話に連れて行った。父親は特に嫌がりもせず受話器を取り、少し間をおいてから番号を押し始めた。こんなに背中が小さかっただろうか。「番号は間違っていない、今でも憶えてたんだな。でも電話には誰も出ないよ、母さんは去年死んだんだ」俺は父親の背中に向かって言った。そしてその場から立ち去った。そのままどれくらい歩いただろう。そろそろ「男に逃げられた」と電話しなければならないのに涙が止まらない。不思議だ。嬉しくも悲しくもないのに。